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神様の居場所、の続き

前回中途半端だったので、今日はその続きを書きます。

自然科学が対象とする世界で、神様がいるはずの場所を探しても、その姿はついに捉えることができず、あたかも、エーテルの如く、遍く宇宙に存在するのだとスピノザは説きました。自然科学者の間には、「スピノザの神」を信じる人もいるのですが、「エーテル」って、アインシュタインが存在を否定してしまったんですよね。

# イーサネットの「イーサ(英語読み)」は、エーテル(ドイツ語読み)と同じ言葉で、
# エーテルが電磁波を伝える媒体というのは、真実であるのが現状ですが、
# こいつは、十九世紀に考えられていたエーテルとは、無論、別物です。

現代の自然科学が存在を否定してしまったものは、神様にとどまらず、生命や精神も、複雑な化学反応過程なり、情報処理過程であることが明らかにされてきました。

かつては、死にかけた人の体重変化を測定して、命の重さないし魂の重さを測ろうという試みが、真剣になされたこともあるんですよ。

では、命や魂について、我々が顧みる必要がないのか、といえば、そんなことはない、ということを、これまでに書いてきたつもりです。

漫画は、科学的に分析すれば、紙の上のインクのシミだけど、漫画を読む人は、紙の上のインクを観察しているわけではなく、紙の上のインクで表現された物語を読んでいるのだということ。

つまり、科学的に存在するものだけが、全ての価値あるものではなく、それによって表された表現、作品も価値を持ち得るのだということ。

法律の上でも、形のある本のような「有体物」に対して、そこに書かれた作品、つまり「無体物」を保護しており、表現に対して価値を認める社会的合意が存在すると考えられるということ。

何が正しくて何が悪いかは、「みんながそう考える」こと、つまり、社会の常識・文化によって決まるということ。

社会には、小さな社会から大きな社会までいろいろあって、人はいくつもの社会に同時に属しており、己の属する全ての社会の常識・文化に規定されるんだということ。

だれでも受け入れられる常識・文化を普遍的と呼ぶが、現在のところ、普遍性のレベルは国家にとどまっているようだということ。普遍性は、全人類をベースに考えてしかるべきだということ。

さて、文学作品や、生命や、精神については、人類の間で、人々の認識は、それほど大きくは異なりません。しかしこと、神に関しては、全く異なる。それが一つの問題です。

私から見れば、キリスト教徒の見ている神も、イスラム教徒の見ている神も、ユダヤの民の見ている神も、それほど大きく異なっているようには見えません。

ただ、神を見るための壁に穿たれた窓(教会等など)が異なっているんですね。我々が神を知ろうとするとき、窓の装飾に目が行ってしまう。それが見事に飾り付けられた窓であればあるほど、窓のすばらしさに心を奪われ、その向う側の神の姿が見え難くなっている、ってことなんじゃないかな。

もう一つややこしい現実は、宗教が国家と結びついているということ。国家を普遍性の礎とする、古臭い考え方は、いまなお根強く残っており、法律・司法の制度も、主に国家をベースとして定められています。国家の名の元であれば、普通なら許されないような、相当の悪事も正当化されてしまう。これが悲劇を生む元である、と私は思います。

では、国家を解体してしまえば良いのか? そんなことはありません。

国家に限らず、全ての社会(持続的なかかわりを持つ人々の集まり)は、政治的結社も、宗教団体も、サークルも、そして、国家も含め、それぞれの集団は、自律的な活動を認められるべきだし、他からの不当な非難や差別的扱いは排除されなければなりません。(勿論、犯罪を企むような集団はダメですよ)

こんな当たり前のことが、どうして常識にならないんでしょうかねえ。