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コミュニティとパーソナリティ

コミュニティという言葉をあちこちで見かけます。(日記のメニューにもありますね。)

今日、都市化した社会ではコミュニティの崩壊が進んでいるともいわれ、自治体などでは、「コミュニティの再生」なんてのが議論されたりしています。

コミュニティって、一体なんでしょうか。どうしてコミュニティは求められるのでしょうか。

フィーリングとしては「暖かい人間関係で結ばれた人々の集まり」で、大昔の村落のような社会を指すのでしょう。コンクリートジャングルのなかで、暖かいふれあいを求める。感覚的にはそういうことでしょうが、もう少し精密に分析してみましょう。

社会学者はコミュニティをいろいろな形に定義していますが、概ね次の3点が条件といえそうです。

1.近接性:古くは、地域的にまとまっていることがコミュニティの条件でした。
今は、遠く離れた人々も、親密なコミュニケーションを交わすことができます。
この条件は、相互に交わされる情報量が多いという意味に解釈すべきでしょう。

2.依存関係:参加者がそのコミュニティに対して何かをし、何かを得ているということです。

3.役割意識:参加者は、そのコミュニティに、どのような形で関っているかを自覚しているということです。

暖かさは「近接性」のなせる業です。相手に対して多くの情報を得ることで、相手の事情に則した対応ができるようになります。

依存関係は、コミュニティの持続的存在のために必要です。なんの役にも立たないところに、どうして人々は集まってくるでしょうか。

役割意識は、コミュニティへの帰属意識を持つうえで必要なんですが、コミュニティにおける自分の位置付けを自覚し、それを他の人にも認めてもらう、認められていると自覚する、ことは、個人の人格形成、パーソナリティを確立する上で、大きな意味があります。

都市化した社会、大規模な集団は、互いに、他の個人に対する情報をほとんど持たず、人格のごく一部、人間の僅かな一面で他者と関っています。このため、人格は不確かなものとなり、自己の存在感に疑問を抱くようになります。都市に多くみられる、自殺や、犯罪、精神的な不安定さは、コミュニティ崩壊に伴うパーソナリティ喪失に起因すると考えられています。

そこで、行政の側から、コミュニティ再生の試み(カルチャー教室など)がなされているのですが、人為的に作られるコミュニティに全人格的人間関係をゆだねることに、私は危険な匂いを感じます。まあ、最初から、代用品だと心得ていれば良いのですけどね。(砂糖に対するサッカリン、みたいな)

インターネットを介した情報交換と、そこに生まれているコミュニケーションの場、こういったものが、新しい形のコミュニティを形成し、都市的人間関係の失ってしまったものを補って行く、そういうやり方のほうが、はるかに自然なのではなかろうか、私はそんな風に考えています。

本当にそんなことができるの? そんな疑問に関しては、また、改めて議論しましょう。