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バチカンのクリスマス

しばらくこの日記をお休みしていましたが、実はこの間私は、パリとローマを訪れていたのです。

12月25日のお昼、サンピエトロ広場に入るには、空港並の厳重なチェックを受ける必要がありました。広場の寺院側には、多数の椅子が並べられ、多くの人が集まっていました。寺院の正面のテラスには、椅子が三つ並べられて、あちこちの大画面スクリーンにその映像が映し出されています。

鼓笛隊を先頭に、百人のスイス兵が回廊部分を一周し終わってしばらくすると、リリーフピッチャーのように、小さな車で、ローマ法王が登場します。群集の間から、アイドルタレントを迎えるような、黄色い歓声が上がります。ローマ法王は、相当に健康が優れないようにもみえましたが、15分以上の長時間にわたって、力強い語調で、メッセージを伝えていました。

何を話していたのか、私に理解できるはずもありませんが、その声を聞きながら、私は、ツアーのバスの発車時刻まで、教会について、考えを巡らしていました。

キリストは「私の教会はペトロの上に建てられるであろう」と語ったといわれています。「ペトロ」は、もちろん、キリストの信頼する弟子ですが、その言葉には「石」という意味があるということで、この言葉は、キリストが、しゃれっ気たっぷりに、ペトロに対する信頼の情を伝えたものと解釈されます。

ペトロが、キリストと同じように(さかさまですけど)、十字架に掛けられて死んだ後、その墓の上に立てられたのがこの寺院です。つまり、キリストの言葉は実現しているんですねえ.大きなドームの中央部には、墓に下りるための階段があります。

この話は、確かに、人の心を揺り動かします。しかし、それは、キリストの言葉の意味するところだったのでしょうか? 私は、それは、極めて疑わしいと思っているのですよ。

つまり、ペトロの墓の上に、実際にキリスト教の総本山が建築されることになろうとは、まさか、イエス・キリストも考えておられなかったであろう、と私は思うのです。現実の姿を見れば、キリストの言葉通り、ペトロの墓の上に、キリストの教会が建てられているんですけどね。

(カトリックの信徒に言わせれば、キリストは全てを見通していた訳だから、 この結果も見えていたというんでしょうけど、私はこの見解を採りません。洒落を言うキリストの方が、私は、好きですからね)

一般的にいって、言葉と、それによって伝えようとする内容とは、必ずしも一致しません。その乖離は、宗教の分野で特に著しいのではないだろうか。法王のメッセージが流れるサンピエトロ広場の、法王とは対極の位置で、小雨に打たれながら、私はそんなことを考えていたのです。