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フッサールの自然科学批判をめぐって

哲学史入門の掲示板にちょっと書き込みしました。その趣旨は、この日記のテーマとも重なりますので、こちらにもコピーしておきましょう。

森田さん)むしろ,そうであるからこそ(現象学でないからこそ)フッサールは自然科学を批判しているわけです.

そうですね。フッサールは、自然科学により高いレベルの普遍性を認めています。(これを客観性というと話がややこしくなるので、ここでは、客観性という言葉は使いません。)これは、ニュートン力学が絶対的真理と考えられていた十九世紀の常識を引きずっているのではないか、と私は考えているのです。

フッサールの自然科学批判は、その結論が間違っているとか、方法論が誤っているということではなく、自然科学の限界(その方法論ゆえの)を指摘したものだと思います。つまり、人は自然界の法則を知り尽くしているのに、なぜ幸福にならないのだろうか、神の高みに近付けないんだろうか、という問題意識が根底にあるんですね。

私は学生の頃、お気に入りの漫画を繰り返し読んでいて、一つの悟り(?!)に至りました。自然科学の教えるところでは、漫画は、紙の上のインクだ、ということです。自然科学でどう頑張っても、漫画のストーリーは出てこない。漫画の価値は、そこに描かれた物語にあるんですけどね。

人の幸福を追求するためには、(人を神の高みにまで引き上げようとすれば)結局のところ、自然科学とは異なる、別のアプローチが必要です。それが、フッサールの現象学だってことなんでしょう。

自然科学も変質しているんですが、その変化の速度が、人の一生よりもかなり速いのが問題です。フッサールの言う自然科学は、ニュートン力学のようでもあるし、その後の相対論によるニュートン力学の否定を受けていると思われる記述もあります。

言葉を、それが語られた背景から検証し直す、それは、相当に大変な作業になるでしょう。昔の人達の業績を否定するわけではありませんが、一旦、これらの人達の言葉を離れて、現時点での理論大系を造り直すという道を選ぶべきじゃないのかな、と私は思うのです。