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百代の過客

JR東日本の新幹線の座席の前のポケットに入っている「トランヴェール」という小冊子、7月号は奥の細道を特集しています。書いた人、名前を忘れてしまいましたけど、中世文学を専門にしている大学教授で、なかなか力の入った力作です。

まあ、新幹線に乗られる方は、目を通して置かれるのが良いかと思いますが、それは、余計なお世話かも、、、

私がこの特集に、特別に興味を引かれたのは、最近読んだ本で、奥の細道を扱っていたからかもしれません。その本、丸谷才一が10年ぶりに書き下ろしたと評判の「輝く日の宮」でして、源氏物語の失われた一巻をめぐる中年男女の恋愛沙汰、とまあ、一言で言えばそうなるんですけど、最初のほうで、芭蕉はなぜ、奥州へ旅に出たか、という点をめぐる議論がなされています。

ま、その前に、百代の過客の読み方をめぐる薀蓄がありまして、古文の教科書には「はくたいのかかく」という振り仮名が振ってあるけど、「百代」を「はくたい」と読むのは、普通の読み方ではなく、生徒にこれを強制するのはどうかと思う、しかし、研究の結果、そう読むのが正しいんだ、なんてことが書いてあるのです。

で、トランヴェールの特集にも、百代の過客が出てくるんですけど、「ひゃくだいのかかく」と、しっかりと振り仮名が!! ふーむ、これはどういうことでしょうか。この先生、独特の主張があるんでしょうかね。ちなみに、ネットで「百代の過各」を検索すると、たいてい、「はくたい」と振り仮名が振ってあります。

あまり書くと、ネタばれになってしまうんですけど、義経500年忌という丸谷が登場人物に語らせている奥州旅行の目的ですけど、一般的には、西行にあこがれて、歌の名所を訪ねる旅に出たなんて言われています。ドナルド・キーンの「百代の過客」では、名所で一句というのが目的のように書かれていますけど、トランヴェールの特集の記述では、非常に苦しい旅の様子、単なる名所で一句というような、軽い動機ではないような印象を受けましたね。

そうそう、ドナルド・キーンといえば、彼のエッセイ「碧い眼の太郎冠者」の解説を丸谷才一が書いていますねえ。中に、「紅毛奥の細道」なんてのもあります。奥の細道、ちょっと研究してみたら、面白いかもしれませんね。

なお、私は、トランヴェールを読むまでは、西行模倣説が有力だと思っていたんですけど、、、「風流の 初やおくの 田植うた」は、西行の和歌に読まれた田植え歌の現物を「風流の初」(オリジナル)と表現したのであって、旅行に出てから初めて風流に出会いましたよ、なんていう解釈じゃないはずですよねえ。なんか、そんな解釈が多いみたいだけど、雛の家だって、十分に風流なんですからねえ。なんか、自信がなくなってきた、、、


百代の過客に関しましてはこちらでも扱っております。