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適応って、実は、良くないことであるとの指摘、あちこちに!

ダーウィンの進化論では、環境に適応した種が生存するというのが進化の基本ですから、適応は生物が生き残る上で、最も重要ということになるんですが、過度に適応することは、その種にとって、危険なことでもあると、多くの人が指摘しています。

一つの指摘は、経営組織の問題点としての指摘で、例えば、境屋太一は、恐竜が全滅したのは、環境に過剰に適応したからであるとの話から、陸軍、石炭会社、メガバンク等の組織が危機を迎えた原因を、過剰適応に見出します。あるやり方がうまく行っていると、組織の全てがそれなり、環境変化に対応できないんですね。

リースマンは、著書「孤独な群衆」の中で、人を自律型、適応型、破壊型(アノミー)に分類し、適応型の人の比率が多い社会は、環境の変化に対して、脆弱な社会であると書きました。そして、米国社会に、適応型の人が増えていると、警鐘を鳴らしています。

現代日本の少年問題に関する興味深い本を、豊泉周冶という方が書いています。題して「アイデンティティの社会理論」、神戸の少年事件から筆を起こし、「透明なボク」をキーワードに事件の背景にある、子供たちの精神状況を論じますが、「良い子」つまり、家庭環境、教育環境への過度の適応に問題があると述べています。

過剰に適応した生物の種、あるいは組織や部族が環境の変化に弱い理由は、ある形があまりにもうまく行き過ぎているため、その他のやり方ができない、多様性が失われている、自由度が制約されていることに問題があるのですね。

これは、全山松が植えられた山が禿山になりやすいのと同じ理由。ある害虫なり、病気なりが異常発生すると、全ての木が枯れてしまう。雑木林なら、ある種類の木が枯れたって、他の木は大丈夫です。

「透明なボク」ないし「良い子」には、リアリティの喪失という問題もあると、豊泉は書きます。適応し過ぎて、自分が他の皆と同じになってしまうと、自分を見失ってしまう。他から押し付けられたカリキュラムや画一的な評価基準は、生きた世界とは別のもの、その中に、生きた自分は見付からないし、ゲームの世界との違いも曖昧になってしまう。

では、どうすればよいか? 一般的には「自律型」の人を増やすことがその答えです。

自律型の人は、外部の基準に自らを合わせるのではなく、自分で考えて自らの行動を決めます。そういう人は、社会に多様性をもたらし、危機への対応能力を高めると同時に、自分自身を確立し、その人のアイデンティティーを確かなものにします。そういう人がすぐ近くにいることは、他の人たちにも、良いお手本となるでしょう。

教育は、そのような、自律型の人を目標としなくちゃいけません。適応型の、従順な人なら、扱いやすいし、教育も楽なんですけどね。ある問題の解き方、色々あるのが本当の姿。毛色の変わったやり方を尊重しなくちゃいけません。いろいろな解決策を知っていれば、環境が変わって、ある方法が使えなくなっても他の手がある。

もちろん、なんでも勝手、ということではなく、間違ったやり方は、それが間違いであることを、納得させる必要があるのは当然です。でも、教育の場であれば、やってみればわかること。間違ったやり方を試みるのも、一つの経験、大事なことではあります。

社会のその他の組織でも、過度の効率性を追及せずに、将来の手幅を広げておくことが肝要。もちろん、その非効率性が、組織の健全な運営を損ねない配慮は必要ですけどね。

自由度を確保すること、これは、不確実性の高いゲームに勝つコツでもあるのです。