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ある酒場の物語

とある地方の港町に、夫婦で経営する酒場がありました。数人座れるカウンターと、ボックス席が三つの小さな酒場ですけど、ピアノが置いてあって、興が乗ると、ママさんが即興でジャズやらソウルを弾いて歌うのですね。その他に、若いバーテンが一人、腕のしっかりした、暴走族風のちょっと良い男でした。

そんな酒場にちょっとした事件が持ち上がったのは、ある夏の日のことでした。その晩、私が飲みに行ったら、若い女の子が一人、店に増えています。常連客は興味津々、正体を知ろうとするのですが、その娘は、笑って質問をかわすだけ。でも、彼女が席を外したときに、マスターとママさんが常連客に打ち明けてくれました。

先日、店で飲んでいた女の子が、ここにおいて欲しいと言い出したのだと。どうやら、いろいろと事情があって、家出してきたらしいと。今はそっとしておいてやりたいから、お客さんも協力してねと、常連客のしつこい詮索に、やんわりと釘を刺されたのでした。

まあ、そういう事情なら、彼女、すぐに居なくなるのかと、ちょっと残念に思っていたのですが、なぜか、腰を落ち着けてしまったようで、彼女、何ヶ月もの間、店にい続けます。

店員が増えたのをちょうど良い機会だと思ったのか、マスターとママさん、アメリカに遊びに行くと言い出します。それも随分長い期間でした。たしか2~3週間ほどだったかな? 本場のジャズを聴きに行くんだ、なんて楽しそうに言ってましたね。

経営者夫婦の旅行中、店は、若いバーテンと新入りの女の子に任されました。少し寂しくなったお店ですけど、その頃には、常連客、ママさんよりも若い女の子がお気に入り、店は結構な繁盛を続けていました。

ところが、ある日を境に、この酒場、休業が続きます。常連客、お目当ての店がやってないもんだから、他の店に行く。それが何日も続くと、さすがに、その店の休業が夜の町の話題になります。

そして、ついに真相が明かされるときが来るのです。なんとバーテン、店の売り上げを持って、あの女の子と逃げちゃった。「あの二人、できていたんだね」なんて締めくくりの言葉が、そこらじゅうで語られます。

その次の夜、久々にその酒場が開店していました。店に居たのは、憔悴しきったマスターとママさん。「やられました」とマスター、帳簿類を眺めながら言います。どうも取り込み中のところでは、心安く酒など飲んでいられない。なんか、迷惑みたいだし、見ちゃいられないという雰囲気もあって常連客、早々に河岸を変えます。

それがそのマスターとママさんを見た最後でした。信頼していた店員たちに裏切られて、すっかりやる気をなくしたんですね。店をたたんで、どこかに行ってしまったと、ひとしきり、夜の町の噂になっていました。でも、この人たちなら、どこかで立派に商売を始めるだろう、と思ったものです。多分、アメリカでの経験も生かして、もっと大きな町に店を出していると思いますよ。

もちろん、バーテンと、あの女の子にも、それ以来、一度も会っていません。でも、この女の子、なんかすごいと思いませんか? 海水浴に来て、家出して、酒場で飲んで、そこの従業員になっちゃう。バーテンとの間にどんな話があったのか知りませんけど、経営者の不在をこれ幸いと、店のお金を盗んで、どこかに逃げてしまう。結構、可愛らしい女の子だっただけに、余計に心に残るのかもしれませんけど、なんか、一巻の映画のような出来事だと感じたものです。