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現実感喪失、だから身体性志向、というのも危険な兆候

最近の少年事件、現実感が希薄になったためと考える評論家が多く見られます。

曰く、ゲームと現実の区別が付きにくい、人工物に取り囲まれた生活で、現実と非現実との差がわからなくなっているのではないか、などと、、、

で、身体感覚を取り戻すことが大事だ、というんですね。例えば、自然の中で自分の力で何かをやるとか、手を動かして、何かを作るとか、何かピントが外れているように思うのですが、、、

実際、人工物と自然、どれほどの違いがあるんでしょうか。人も自然の生き物で、人工物も、自然に出来たものといえなくもない。アリの巣と都市との間の違い、さほど大きなものではありません。ただ、人工物は、誰かの管理下で動いている。ヒトが人工物に関わるとき、常にその管理を意識しなくちゃいけません。プログラマーの書いたゲームの世界と、都市の提供するサービス、どちらも管理下で行われている。

でも、自然のモノも、実は誰かの管理下で動いているんですね。野や山も、誰かの所有物で、誰かの意図の下に管理されてます。農園にしろ、公園にしろ、植物園にしろ、キャンプ場にしろ、みんなそうですね。だから、これらの自然、ゲームセンターに置いてある機械と、さほどの違いはない。

子供たちを自然の中に連れ出す、これは、教育の一つとして評価できるでしょう。自然の姿を知ることは、ヒトが知っておくべき知識であることは確かです。でも、これが現実感喪失という問題に対する答えになるとは思えません。

現実感を喪失したといっても、感覚が失われたわけではない。目にはモノが見えるし、耳には音が聞こえる。のども渇けば腹も減る。むしろ問題は、そういった感覚を持つ自分、そのものの存在感が失われている、自分自身の存在が、あやふやだ、というところが一番の問題。

で、何でそうなっちゃったかといえば、行き過ぎた管理と画一化。同じ型にはめられた子供たち、自分自身の存在に自信がもてなくなるのは当たり前。他と差があるからこそ、自分の存在が認識できるんですね。

自然というのは、多様なものだから、子供たちも多様な反応を示すかもしれない。でも、今の教育が子供たちの多様な反応に対処できるなら、それは教室の中でも出来たはず。

自然の中で、何かがあったら大変だから、オトナたちは管理をする。この管理のしすぎが、本当は大問題。でも、自然の中で、勝手にやらせるのも危ない。管理を外そうと思えば、自然の中よりも、むしろ、教室の中とか、計算機世界の中に戻るのが現実的なんですね。

子供たちを取り巻く環境をより良くしようと思うなら、まずは教育に対する管理を緩くすること、文部科学省が心を入れ替えるのが先決、今の姿を見ていると、ますます悪い方向に進んでいるようにしか見えません。

ま、結果はおのずと見えてくるはず。これまでの、文部省の指導のふらつきを見れば、連中の能力、判断力がどの程度のものか、おのずと明らかでしょう。その責任感の欠如たるや、言わずもがな、ですね。