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「正義」の危うさ

米国で同性同士の結婚を認めたというニュースが少し前に話題になっていました。これ、ブッシュの支持基盤であるキリスト教右派(原理主義者?)には受け入れがたい話、でも、同性愛も認めるべきと主張する人たちもいます。これ、大統領選でも議論を呼ぶのでしょう。

一方、イラクでは、米国、イスラム教徒の反感を買っています。イスラムにも原理主義者がおりまして、宗教的な、過激な主張をする。どちらの宗教も、信じるヒトには絶対的な真実、原理原則を追究したら、共存はありえません。

日本にも、様々な、正義を唱える人がいるんですね。右翼も左翼もそうだけど、新聞もそうだし、自己責任を唱えるネットの人も正義の味方、しかしこの正義、正しい正義なのかどうか、よく考えてみなければいけません。

年金未納問題の教訓の一つ、人の振りみてわが身を直せ。己の言葉も自省しなくちゃ。

で、この問題を良く考えると、3つのポイントに行き当たります。

第一に、ヒトは絶対的な真実を知りえるのか、という問題です。それが出来ないのなら、絶対的な正義の立場をヒトはとり得ない。だって、自分の唱える正義、間違っているかもしれない。

で、これに対する答えは不可、なんですね。ま、この点は異論があるかもしれないけど、ヒトの精神活動に超自然的存在が関っているという考え方は、今日の自然科学で否定されており、脳を構成するニューロンとその接続(シナプス)の運動がが精神活動と考えられているのですが、ニューロンは140億個、シナプスはニューロンあたり8千と有限の数しかない。だから、ヒトの考えは近似的であり、絶対的な真実を知ることはドダイ無理です。

絶対的な真実、正義の存在を否定することは出来ないけれど、それを知ることは出来ない、だから、ヒトにとって、絶対的真実、あった所で何の役にも立ちません。結局の所、我々が信じる真実、間違っているかもしれないと、常に思わなくちゃいけません。

第二に、何を基準に正義を語るのかという点。絶対的基準がないと、正義の基準もないはず。でも、皆が真実と信じるもの、それは絶対的基準がなくても、真実としか言えない。もちろん、この信じる、ってのは、考えに考え抜いた結果、信じることですよ。

ヒトは相互に意思を伝え合う存在です。で、意見が食い違うと論争する、相手を説得しえるだけの根拠が示せれば、それが真実なり、正義ということになるのですね。で、それがより広い社会で認められたとき、ついには普遍的真実になる。普遍的というのは、文化、国家、宗教、人種に関らず、それが正しいと信じられるという意味。

そこで題三のポイント、つまり正義が正義といえるためには、普遍性を持たなくちゃいけない。普遍性、つまり、異文化のヒトにも受け入れられることが、正しい正義の条件。フセインの圧制から解放されたイラクの人々が拒否するアメリカの正義、普遍的な正義とはみなせないのですね。ま、キリスト教原理主義者の正義、かもしれないが、、、

絶対的な真実は知りえない、だけど、ヒトは日々、決断を迫られています。不確実性に掛ける決断、つまりリスクをテイクすることもあるでしょう、過去の経験や論理的推察により、これが正しいと判断出来ることもあります。

でも、それがどれほど正しそうな、自信が持てる決断であろうとも、誤りである可能性はゼロではない。特に、他人にとっても同じことがいえるかとなると、その決断が、普遍性に礎を置いているかどうかが問題になりまして、普遍性がない場合、同じ決断が、他人にとっては誤りになる可能性が相当に高い。

そんな場合はどうすればよいか。簡単な話です。自分に関らない限り、自由にやらせれば良い。自分と衝突する部分が出てきたら、相互にとっての普遍性を探る交渉をするのですね。

それが出来なければ、物理的に決着を付けることになるのでしょうが、それは、目くそ鼻くその争い、正義の戦争なんてのは、よほどおかしな相手じゃなければ成り立たない。それが宗教的対立の様相を帯びてきたなら、もはや正義の戦争ではない、と判断すべきですね。