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自分を探す、、、見失った自分自身の見つけ方

インターネットは自分探しの道具である、なんて説を、大昔、聞いたことがあります。ネットで日記を公開する、その訳は、自分を探すため、というヒトが多かったのですね。

自分探し、って、最近よく聞きますけど、なんか変なコトバですね。コレ、額の上に上げといたメガネを、必死に探すヒトみたいですね。自分で自分を探すのも、何かおかしな感じです。

で、この言葉の意味をもう少し深く考えると、私はこういう者である、という像が思い浮かばない、こんなことやってて良いのだろうか、なんて疑問がふと浮かぶ、そのうちに、どこまでが自分で、どこまでが自分じゃないかわからなくなる、この世界、一体現実のものなのか、夢の世界なのかわからない、ふーむ、ココまで行くと、ちょっと危ないかもしれません。

ま、でも、こんな悩みが出来るのも、幸せなことかもしれないのですね。身分制度があったりして、子は親の職業を継ぐしかない、少し前までは、そんな時代が長かったのですね。今そんなことになっているヒトは、歌舞伎役者や家元と言われるようなヒト達、あ、天皇家、という超例外的存在もありますけど、普通は何をするのも自由。

ま、あまり自由すぎるから、何をしたら良いのかわからない。それが一つ。

もう一つの問題は、難しく言うと、「身体性の喪失」という問題がありまして、現実感がわかないんですね。で、なぜかというと、コレも幸せな話、つまり、餓えや渇き、暑さ寒さ、疲労などなどの苦痛が減ってしまった、昔は夏は暑いし、冬は寒い、そんなことがアタリマエだったのですね。食べ物も十分じゃないから腹が減る、何をするのも筋肉ですから草臥れる、でも今は冷暖房完備、交通機関も発達してるし、テレビにパソコン、何でもある。昔の子供がしょっちゅうこさえていた生傷、今はあまりお目にかからない。

苦痛と無縁の生活をしていると、生きる、という緊張感がなくなってしまうのですね。で、ふとリストカットをしてみたりする。コレは危ないですねえ。

でも、今の時代にだって身体性を見つけることは簡単です。一番はっきりしているのがスポーツ、これ、肉体の限界への挑戦ですから、ま、本気でやるなら、自分の存在(限界?)、嫌というほど良く判ります。歩いたり、自転車に乗るのも、少し無理をすれば限界への挑戦になりますね。

ま、別に何もなくても、腹筋運動でもよし、縄跳びでもよし、ダンベルも良いですね。それから、しゃがんだ状態から立つ、コレを30回もやると、かなり効きます。ま、身体性に疑問を感じたら、ちょっと、自分の体をいじめてみましょう。その節は、命に別状がない程度のいじめ、で止めとくことが大事ですよ。

さて、もう一つの問題、自分は何かわからないという問題、これ、簡単な話なんですね。つまり、白紙の状態、これからその上に絵を描けば良い、というだけの話なんですね。で、そういう段階のときのやり方、というのもあるのですね。

たとえば研究をするとき、あるいは、新しいビジネスを始めようというとき、最初の段階では、何をどうすれば良いのか、全然判らない。つまり、白紙の状態であるわけです。で、このときすべきこと、それは、あまり可能性を絞らないこと、自由度を確保しておくことが大事なんですね。

つまり、先のことがまるっきりわからない、だから、どう展開しても対応できる、そんな自由度を確保しつつ、研究を進め、事業化検討を進める必要があります。

逆に、研究が完成段階に来たとき、ビジネスが立ち上がったとき、そういうときには、その対象に集中すること、余計なことに気を取られてはいけません。

と、イウコトハ、自分が何者だかわからない、白紙の状態にある人は、視野を広く確保して、いろいろなことをやってみるのが正しい道。そのとき、自由度を失わないように、駄目なら別の道に切り替えられるようにしておく、そうやっていろいろとやるうちに、だんだん何かが見えてくるはず。

あ、もう一つ大事なこと、これは、自分が何者かということは、自分で納得するだけじゃなくて、他人もそれを認める必要があるのですね。ということは、いろいろやる過程で、自分自身が他人の役に立つこと、この点を意識しておく必要があります。

役に立つ奴は社会に認められる。それが自分でも感じ取ることが出来れば、自分自身が何者なのか、なんとなくわかってくるというものです。

正に、情けはヒトの為ならず、これ、自分自身の為である、という意味なのですね。