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国家の品格、に思うこと

この週末、寒い日が続きまして、私は引きこもり状態。お蔭様で読書がはかどります。と、いうわけで、国家の品格を読了。こちらもお買い得の新潮選書、本体価格は680円です。

これはしかし、読みやすい本ですねえ。読みやすい上に、日本人読者を良い気分に誘う、なんと申しますか、心地よい本ではあります。でも、こういう場合、気を付けなくちゃ、と私の本能は教えるのですね。女たらしに甘言を囁かれている乙女の心境、なのですね。

まず、全体を貫いている主張は、グローバルスタンダードなどに惑わされてはいけない、そんなものは、米国ローカルのキリスト教原理主義、ともいうべき偽のスタンダードで、日本は日本独自の文化を守るべきである、それは世界に例を見ない、優れた文化なのだ、という論理です。で、日本文化の基礎は武士道にあり、というわけですね。

まず、キリスト教文化による世界支配というブッシュの野望はめちゃくちゃな発想で、これがとうの昔に破綻していることは議論の余地がありません。しかし、経済の世界でグローバルスタンダード、という方向は、わが国が避けて通れない道であったのですね。

そもそも、わが国がグローバルスタンダードを受け入れたから拝金主義が横行した、という基本認識に問題があります。日本に拝金主義が蔓延したのはバブルの時期。それを端的に象徴したものが、金魂巻の「まる金、まるビ」を好意的に紹介した朝日新聞の記事だったと思うのですね。これをみたときには、あの朝日新聞までが、と、しばし絶句したものです。

大蔵省の役人が、大手銀行の「MOF担」と呼ばれる人達にノーパンしゃぶしゃぶの接待を受ける、などといった、世も末、という時代もありました。こうなりますと、もう、武士道もヘッタクレもありません。恥の文化など、日本の中枢から消え去っておりました。

で、グローバルスタンダード、なんてことが必要になってしまったのは、バブルが崩壊したからでして、これ以前の会計は、土地などの資産を取得価額で帳簿につけていました。ですから、帳簿上は立派な黒字でも、市場価値で計算すると債務超過、いつ潰れても不思議はない、なんて会社がごろごろ出てきたのですね。で、土地で大損をした会社に多額の融資を行っていた(と、いうよりも、不動産投機をそそのかしていた)銀行が、横並びで苦境に陥ってしまったのですね。

こうなりますと、旧来の日本式会計システムを温存したのでは、日本の企業は世界に信頼されません。世界の投資家や取引先の信頼を得るためには、世界に通用する会計システムを採用するしかないのですね。これが、会計の世界でグローバルスタンダードを受け入れざるを得なかった理由です。

私が思いますには、取得価額評価という会計方式がむちゃくちゃ。先の読めない、無能な経営者を甘やかすだけのものでして、買ったものが値下がりすれば、損はきっちり計上するのが当たり前のことだと思うのですね。

第二に、会社は株主のもの、という考え方に否定的なのにも、首を傾げざるを得ません。そもそも、この大原則は法律で規定されたことですし、今日のように、株式会社、なんてものが一般的になる前から、お店は金主のものでした。金主の不興を買えば、番頭だって丁稚だって暇を取らされるのは、武士道がもてはやされた江戸時代だって変わりません。

もちろん、金融危機以前は、経営者は株主に対して冷淡でいられました。これは、企業相互が株式持合いをしていたためでして、お互い、馴れ合い、もたれあい。なあなあの世界に安住していられたのですね。

でも、時価会計が原則となりますと、企業は株を持つリスクを嫌い、持ち合い解消に動いてしまいました。代わって株主となりましたファンドにしろ個人にしろ、リスクの代償としての経済的リターンを求めます。これも当たり前の話でして、それが可能なように、グローバルスタンダード云々の前から、株主総会などの手続きが定められていたのですね。異常な姿であったのは、株式持合いが常態化していた時代であった、と私は思います。

もちろん、目先の利益のみを追求し、企業の価値を損ねるような行為は倫理に反する、と私も思います。いわゆるハゲタカファンドやグリーンメイラーのような存在ですね。これらに対して、きちんと対応し、従業員を守るのも、じつは経営者の責任であるのですね。銀行の現金が盗まれたら、それは盗む奴が悪いこと論を待ちませんが、盗みやすい状態であったとすれば、盗まれた側の責任も問われるわけです。

国家の品格で首を傾げざるを得ない第三の点は、論理性の否定、ということでして、確かに倫理には論理的根拠など、そう簡単に見出されないケースも多いでしょうし、議論をしても、いつまでたっても結論など出ない、ということは事実でしょう。特に子供に人の道を教えるのに、理由など、説明してはいられない、ということも確かでしょう。

しかしながら、異質な他者の理解を得るには論理もまた必要なのですね。結局のところ、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいない、という言葉が事実であるにせよ、日本的流儀を世界の人々に納得させるには、一定の説明が必要であり、その中には論理も含まれなくてはならないと思うのですね。少なくとも、ならぬことはならぬものです、では世界の人々の理解を得ることは困難ではないかと思います。

とまあ、文句ばかりつけましたけど、この本、なかなか良いことが書いてあると思います。全てを情緒的に信じ込んでしまうのは少々問題ありとしても、一読して損はない本ですね。