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レイヤ7の思想

ホームページにおいてあります実験的小説レイヤ7は、ヒトと同様な精神的働きをする機械が活躍するお話です。

ヒトの精神的活動は、現在のところ、ニューラルネットワーク上で行われている情報処理活動によるものと考えられており、ニューラルネットワークの動作も、化学反応で説明が付きそうな状況です。つまり、ヒトの精神活動は自然現象であり、これと同等な働きをする装置を人工的に作り出すことも可能である、と考えるのが妥当なのですね。

もちろん、現在のところ、そのような装置は作られていません。これは、ヒトの脳にあるニューロンの数が140億という膨大な数であり、それぞれのニューロンが1000ほどのシナプス(接合部)で他のニューロンと接続されている、きわめて複雑な装置であることが、これを人工的に再現することを妨げているのですね。

まあ、140億は14G、その1000倍は14Tでして、これだけの数の接続先(14Gのいずれに繋がるか)と、そのニューロンの興奮をどの程度の比率で伝達するか、という情報を格納しておく必要がありますし、14Gのすべてのニューロンが同時に作動する必要がある、というのもかなり大変な話ではあります。

しかし、ニューロンの活動はkHz程度と低速である一方で、CPUは、今ではGHzと、百万倍のスピードを持ちます。だから、14Gのニューロンは、14k個ほどのCPUを時分割で動作させることで置き換えることが可能です。実際のところ、1万個ほどのCPUで十分でしょう。(それぞれのCPUは千組の乗算を1nsで実行しなくちゃいけませんが。)

一方、14Tの情報は、接続先と伝達係数を格納する必要がありますので、それぞれ数バイトないし数十バイトの領域が必要となるはずで、仮に100TBのメモリーが必要であるとしても、今日の普通のPCの数GBメモリーに比べて、10万倍ほどのメモリーを持たなくてはいけません。

とはいえ、1万個のCPUを並列動作させるなら、それぞれのCPUに必要なメモリーは10GBと、たいした容量でもないのですね。この程度でよければ、研究機関などであれば、20年も経てば、十分手の届くところにくるはずです。で、そうなったとき、ヒトの世界観は変わらざるを得ないのではないか、という問題意識が、このお話の根底にあるのですね。

で、このお話を書きましたときは、私自身の哲学的考察も進んでおらず、お話の中では、曖昧に書いているのですが、ここでは、もう少し整理して書いておきましょう。

まず第一に、ヒトの精神は自然現象なのだが、自然現象だからといって価値のないものではない、という点が重要なポイントです。これは、物理的にみれば紙の上にインクが乗っている存在でしかない本や漫画の価値は、その物理的部分にあるのではなく、それを読んだヒトの心に再生される物語の部分にある、ということと同様なのですね。

デカルトによれば、真に物理的に存在しているといえるのは、エネルギーの空間分布だけであり、色やその他の属性は、ヒトの精神活動の結果として生み出された概念的存在である、ということです。たとえば、色をどこで区切って異なる名前をつけるかは、文化・社会によって異なりますし、その他の諸物にしろ、どこで区切るか、どのレベルの概念で区別するのかといったことは、文化によっても異なるし、それを見るヒトの興味のありかによっても異なるのですね。

そういえば、花屋の店先で、きれいなバラを見掛け、なんというバラだろうかと、ラベルを見て驚いたことがあります。何しろそのラベルには、「バラ」と書いてあったのですね。ま、このラベル、間違ってはおりません。でも、普通は、バラにつけるラベル、そのバラの品種を書くものでして、私もそれを期待したのですね。

閑話休題。第二のポイントは、ヒトの知性は有限であり、その結果、概念は近似的でしかなく、常に誤りを犯す可能性がある、ということです。だからヒトは、絶対的な真実には到達し得ません。このあたりまでは、レイヤ7にも書いたのですが、今となっては追加が必要です。

で、第三のポイントは、ヒトの知性は、生まれ育った環境、社会や文化の影響を受けて出来上がるということで、考える筋道も考え方も、社会や文化が異なれば、異なったものになってしまうという点でして、そのどちらが正しいか、などということは、簡単に判るものではありません。

第四に、それでもなおかつ、コミュニケーションは成り立つし、一部の概念は共有できる。それを普遍的概念、普遍的社会ルール、と呼ぶとすれば、これは、レイヤ7で扱っております普遍国家宣言に相当します。

で、普遍国家宣言は、差異を認める、といたしましたが、これが第五の大事なポイントでして、もとより、ヒトの精神は、社会や文化によって異なる部分を持つため、それを無理やり一つに合わせることは、非人間的行為である。となれば、それぞれの文化の独自性は、相互に認め、尊重すべきではないか、ということなのですね。

だいぶ長文になりましたので、本日はこの辺までといたしますが、レイヤ7、いずれ書き直す必要がありそうです。