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マインド――心の哲学――を読む(その2)

MiND/マインド/心の哲学に関する論評を続けます。

先週のこのブログでは、意識する機械はできない、というサール氏の見解に対し、私は、人と同様の精神活動を行う機械は人工的に製造可能である、と考えているのだ、というお話をいたしました。

この理由として、人の心を司っている臓器は脳であること、その生理的作用も徐々に明らかになる一方で、そこに何ら超自然的現象は見出されていないことをあげました。

そこに超自然的現象がないのなら、同じ働きをするものは人工的に再現することができる。問題は脳の複雑さなのだが、情報処理技術の飛躍的進歩に伴い、2~30年後には人の脳程度の装置は人工的に製作可能となるであろう、ということも述べました。

サール氏も基本的に、唯物論を受け入れており、私と同じような論理を展開しそうなものなのですが、結論が異なる。この理由として、意識の存在があるように思われます。

すなわち、大脳が物理法則に従う存在であることを認めてしまうと、主観があることが説明できない、自らが主体的に物事を考え、自由意志で行動していると考えている、自分自身の実感が説明できない、というわけなのですね。

しかし、物理法則に従う存在が意識を持つことがなぜ不自然であるのか、その点が釈然としません。まあ、そのように考える理由は、なんとなくわかるのですが、これが大いなる間違いである、ということをまず述べておきましょう。

まず、唯物論的解釈に従うと、人の脳は計算機のハードウエアであって、心はソフトウエアである、と考えるのだそうですが、これは大いなる間違いです。

ソフトとハード、確かにぜんぜん別物のように考えている人は多いと思いますが、技術的には、相互に置き換えが可能なのですね。

例えば演算処理、昔のコンピュータは簡単な演算、例えば整数どうしの割り算などもソフトウエアで行っていました。でも、今日のコンピュータは、浮動小数点の演算までも、専用のハードウエアで行っているのですね。

更に、ハードウエア記述言語(HDL)などというものもありまして、高級言語で記述された、ソフトウエアというしかないものでハードウエアが定義されます。最近では、C言語でハードウエアを記述したり、C言語で記述されたソフトウエアの一部をハードウエアに落として高速化する、などということも行われるようになっております。

では、コンピュータで意識に相当するものは何でしょうか。私は、それは、アキュムレータである、と思うのですね。普通のコンピュータはシーケンシャル処理でして、アキュムレータも単純なのですが、人間の脳は並列処理を行っておりまして、アキュムレータ、といいますか、特別に柔軟な演算処理を担う部分も、相当に複雑な構成になっていると推察されます。

人の脳で行われている情報処理は、単純な反射的処理、例えば歩く、水を飲むなどの行動の制御だとか、言語の理解、網膜で得られた視覚情報の処理など、意識することなく行われている情報処理が非常に多いのですが、何事かを考えたり推理したりするとかといった高度で自由度の高い情報処理は特別な部分で行われていると考えるべきだと思います。

コンピュータシステムのアナロジーでいえば、人の行っている単純な反射的処理は周辺処理装置、例えばプリンタの制御部分などに相当し、メインの中央演算処理装置(CPU)とは異なるサブシステムが情報処理を行っている。これに対して、複雑な演算はレジスタ、アキュムレータ、演算処理ユニット(ALU)などを備えたメインのCPUで実行されます。

人が何かに意識を集中する場合、このために準備されたニューロンの部分に、種々の情報がロードされ、さまざまな推論が行われるはずです。これがいうなればコンピュータにおけるアキュムレータなりレジスタに相当する部分で、これらに結び付けられた論理演算ユニットがこれらの情報を処理する、というわけです。

情報処理装置を設計する際、並列処理とするか、シーケンシャル処理とするかは判断を要する問題でして、並列処理は高速ですが多数の論理素子を必要とする一方で、シーケンシャル処理の場合は限られた論理素子で膨大な演算処理を行える代わりに、処理速度が遅い、という特性があります。また、同じ処理装置を用いて、任意の演算処理が実行できるように装置を構成することも可能(CPUなど)でして、高い自由度を持つことができます。

脳は、基本的に並列処理なのですが、意識に対応する情報処理部分だけは、例外的に、シーケンシャル処理となっているのですね。

このため、意識的な思考は、同時にいくつものことが考えられない、時間がかかる、などの欠点はあるものの、一方で、きわめて複雑な概念も扱えますし、まったく新しい現象にも対応することができます。

このようなシーケンシャル処理を担うニューロン組織(アキュムレータ部)への特定の概念群のロードを、脳自身は「意識している」と捉える、と考えることができるのではないでしょうか。そう考えれば、意識も、それ自体物理的過程であるとみなすことも不自然ではなく、心身の問題は回避可能ではなかろうか、と思います。

例えば、睡眠はアキュムレータ部分の活動休止に過ぎない、と考えることもできますし、自己同一性は、アキュムレータ以外の部分、つまりは無意識の部分が担っている、と考える余地が生まれるわけですね。

さて、私はデカルトの業績を高く評価するのですが、それは彼が、真に物理的に存在していると言えるのはエネルギーの空間分布だけであり、それ以外の属性は、全て人の概念としてのみ存在する、という意味の言葉を述べていることです。

以前のこのブログで、このあたりのことをオブジェクト指向プログラミングの概念との対比でご紹介いたしました。これを簡単に述べますと、ソフトウエアにおけるオブジェクトの実体はメモリ上の領域であり、物理的オブジェクトの実体が空間に分布するエネルギー粒子の特定の部分であることに対応いたします。

で、プログラマは、このメモリ上の領域をオブジェクトとして扱う。この場合のオブジェクトは特定のクラス(型)として定義され、そのクラス独特のインスタンス(変数)群が、そのメモリ上に配置されるとともに、クラスに対して定義されたメソッド(操作:演算処理手続きなど)をオブジェクトに作用させることで、種々の演算処理を定義するわけです。

で、人々が現実の世界に対処する場合も同様でして、空間に分布するエネルギー粒子の特定の部分を物理的オブジェクトとして認識する。つまり、何らかのクラス(型)にあてはめ、具体的な物理的オブジェクト特有のインスタンス(形だとか、大きさだとか、位置だとか)を自らが認識した物理オブジェクトに与えた上で、そのオブジェクトに対して可能であると認識している操作を施す、というわけです。

コンピュータプログラムにおいて、オブジェクトの実体は一連のメモリー領域である一方、ソースリスト上では個々に区切られ、独特の性質をもつ抽象的データ型として扱われるのと同様、物理的オブジェクト自体は人の外部に存在するが、概念自体はニューロンの内部に構成され、その概念に対して意識は作用する。これが心の問題を解く鍵となるのではないでしょうか。

だから、何万キロも離れた太陽に心が向かうのはおかしい、などという疑問は氷解します。心が向かう先にあります太陽は、太陽の概念であって、それ自体は脳の内部に存在するのですね。

本書にはないのですが、心の問題を考える際に無視できないのは他者の問題、文化・社会の問題ではないかと思います。

人は自らが意識をもつと同様に、他者も意識をもっていると自覚しており、他者と概念を交換することができます。というより、日常的に行っているのですね。

更には、社会的権威の存在、文化、常識の存在を確信しており、大部分の概念は、これら文化・常識を受け入れて、自らのものとして保有しているわけです。

人の知的活動は、ニューロンの情報処理にのみ目が向かいがちですが、社会的な知的活動も無視できず、教育・研究機関の存在、学会の存在、出版や講演などの活動も盛んに行われ、これらの継続の結果として、人類が共通に持つ科学的知識やその他の概念を、今われわれが手に(ニューロンに)しているわけです。

10億の中国人に意識が生まれないことをもって意識を作り出すことはできない、との記述が同書にあるのですが、実は、50億の人類、すでに全体として知的活動を行っているわけです。

その英知は高く評価されてしかるべきである一方、それが多分に分裂症気味であり、多重人格的であることもまた事実でして、人類全体というこの知性体、精神的に病んでいる、とみなすべきではなかろうか、と私は考えております。まあこれは、余談、なのですが、、、

参考リンク:哲学の劇場:訳者の方が運営されているページです。