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オブジェクト指向の哲学(改版その2)

(その2)です。楽天のブログは1万字の縛りがありますので、分割して記載いたしました。


0.3. デカルトの暗号(?)を解く試み

デカルトの二元論は、心身二元論として広く知られております。しかし、心身二元論とは、「観念である心」と「延長(ひろがり)である身体」の二元論であり、基本的には、デカルトが第三省察で蜜蝋を例に取り上げて説明した「延長(ひろがり)」と、コギトに基礎を置く「観念」の二元論的思想の、一つの応用例であるわけです。

ここで「二元論的」といたしましたのは、実はデカルトの主張は二元論ではない、との観を、私は個人的に有しているからでして、デカルトの主張は「延長」と「観念」という二つのものが並存するということではなく、同じものをみるのに二つの観点がある、といっているように解釈されるからです。

このような二つの観点は、今日の自然科学でも、ごくあたりまえのように使い分けていますし、オブジェクト指向プログラミングもそのような二つの観点からオブジェクトを捉えている、ということを前節でご紹介しました。これを理解した上でデカルトの言葉を吟味するなら、この「二元論的」自然理解にはなんら不自然な点はなく、むしろ今日の科学技術の礎となるべき、デカルトの慧眼のなせる業であるように思われるのです。

デカルトの心身二元論は、今日では、大変に人気のない思想となっています。何しろ、広がりとしての身体と観念としての魂の二元論というわけですから、今日の自然科学の成果と相容れない発想なのですね。

デカルトは「我思う故に我あり」の哲学者として知られた方なのですが、自然科学全般にも通じた方で、彼の創始した座標幾何学は、今日でも「デカルト座標系」、つまりXY座標で点の位置を表す手法として、たいていの人が数学の授業で教わっているはずです。つまり、それほどの科学者だった、ということなのですね。

デカルトの学識は、哲学、神学のほか、物理学、光学、医学におよび、地動説を含む書物を出版しようとしたものの、ガリレオに対するローマの検邪聖省の有罪宣告の知らせを受けてこの部分を削除してを書き直す、なんてことまでやっているのですね。

このときの事情を、方法叙説では、以下のように記しています。(三宅徳嘉他訳、白水社)

ところが今から三年まえ、私はこういうことをすべて含んでいる論文を書きあげて、印刷屋の手に渡すために見なおしを始めていましたが、そのとき次のようなことを知ったのです。それは、私が敬服するかたがたが、しかもそのかたがたの権威が私の行動に及ぼす力は、私自身の理性が私の考えに力を及ぼすのにほとんど引けをとらないのですが、ほかのある人によって少し前に発表された<自然学>についての一つの意見を否認した、という知らせです。

この記述で注目されるのは、「そのかたがたの権威が私の行動に及ぼす力は、私自身の理性が私の考えに力を及ぼすのにほとんど引けをとらない」との記述でして、デカルトの理性がデカルトの考えに力を及ぼすのと同じくらい、バチカンの権威がデカルトが本を書くという行動に力を及ぼしている、ということを告白しているのですね。

何しろ、地動説を含む本ですら出版が許されないのですから、魂の存在を否定するなんてことができるわけがありません。実に、デカルトの書物は、神の存在証明の形を取っているのですが、この部分がデカルトの本意であるのか、単にバチカンの権威が力を及ぼした結果であるのか、なんとも判断のつきかねるところです。

方法叙説の上の引用部分は、デカルトのバチカンに対する敬愛の心を表明しているようにも読めるのですが、明らかにこの部分でデカルトは、自らの理性で地動説が正しいと考えるに至ったことを述べているわけですから、当時としては極めて危険な思想の表明であるように思われます。

このような危険な文言を書物に忍ばせたデカルトの真意につきましては、今の私達には推測するしかありませんし、その推測が正しいものであるという保証は全くありません。しかし、この文言から演繹される結論は、デカルトの書物に書かれたことの全てがデカルトの理性のなせる業ではない、その一部はバチカンの権威故に、デカルトの理性に基づく考えとは異なる内容を含んでいる、という事実の表明であって、デカルトの書がある種の暗号の書であることを指摘しているように、私には思われます。

ということになりますと、デカルトの書物を正しく読むためには暗号解読が必要となるのですが、通常の意味での暗号解読は、今の私にはとてもできる相談ではありません。でも、理性は万人にとって常に同じように働くことを考えれば、権威のなせる業と理性のなせる業を切り分けることも、できない相談ではないのですね。

つまり、デカルトの書を読むに際して、明晰な理性に照らして合理的と思われる部分はデカルトの業績とみなし、不合理で誤った記述と思われる部分はバチカンの権威に責任を押し付ければよい、というわけです。

これはずいぶんとデカルトに都合の良い、バチカンには部の悪い読み方であるという気がしないでもないのですが、そもそもは言論に圧力を掛けたバチカンの責任、当然の報いというしかありません。

0.4. 用語について

まず、本稿では0.2節でのべましたように、「客観」という用語を再定義して用います。この再定義に同意頂けない場合は、「相互主観」などの用語に置き換えてお読みください。

本稿におきます「客観」の定義は、「人が属する社会の成員が共通に持つ認識、もののみかた」でして、「社会の主観」などという過激な定義も0.2節には書きました。

この部分につきましては、改めて議論する必要があると思うのですが、ここで簡単に論じておきましょう。

まず、ある社会の内部でしか普遍性を有しない「客観」を絶対的事実であると考えたことが、過去に理性がもたらしたさまざまな災厄の原因と私は考えております。

で、人々が、そのような意味での客観には到達できないのだ、ということに気付いたのは大いなる前進であるのですが、そうなりますと今度は何もできない、というどつぼにはまってしまうのですね。

一方で、日常世界では客観という用語が多用されており、これを単に哲学的無知であると言い切ってしまうことも問題であると考えるわけです。

哲学には、この世界で人々が考える、その道筋を与える責務がありまして、この社会の常識と哲学における定義が異なる場合には、哲学的定義の側が歩み寄ることも、また必要ではないか、と考えております。そうすることではじめて、哲学はこの世界に対して力を持ちえるのではないでしょうか。

日常世界における「客観」という用語は、広く社会一般が妥当と認める、といった意味で、「普遍的」という用語も同様の意味で用いられます。哲学の世界で、どちらの用語も、絶対的で唯一の真実を指す意味で用いられていることとは際立った対照をみせております。

文化を異にする人達の間でのコミュニケーションに際して「普遍的コミュニケーション」が必要である、などという言い方もいたしますが、これも唯一絶対的な真実に基づくコミュニケーションを要求しているわけではなく、文化を異にする人達の相互が共通に理解できる言葉でコミュニケーションする必要性を述べているに過ぎません。

更に、主観に対比する形で客観というものが考えられているのですが、主観は人の精神内部に存在する概念であることに対比して考えれば、客観はいかなる精神的存在の内部に保持される概念であるのか、という点が問題となります。

この問に対する一つの回答は「神の主観」を客観とするものなのでしょう。しかし、人は神の完全性を持ちえず、神の主観の域に到達することはありえません。このため、人間にとって「客観」という概念は、ある種の理想的空想の存在であって現実的にはありえないもの、となってしまいます。

しかし一方で、日常世界において「客観」という言葉が多用される現実を省みれば、この言葉の意味を改めて問い直す必要があります。

私はそこで、社会を精神活動の主体と考え、社会の主観をその社会の成員にとっての客観であるという形に、客観という用語を再定義したいと考えました。

社会が精神活動の主体であるという考え方はとっぴな考え方のように思えるかもしれません。しかし、社会に文化、常識があることは広く受け入れられており、これら文化、常識もある種の概念的存在であることから、精神活動の主体としての側面も社会は持っているということを受け入れることにさほどの無理はないものと考えます。

人の精神的活動は、ニューロン相互のインパルスの伝達によって引き起こされているのですが、社会にもこれと類似した構造が認められます。すなわち、社会を構成する人々は複雑なネットワークを経由して、相互にコミュニケーションを行っているのですね。これらの活動は、全体として、精神的活動であると考えることにも、さほどの無理はないでしょう。

こうして、客観概念を絶対的な地位から社会の主観という地位に引きずりおろすことで、客観なるものへの新たな考察が可能となり、多文化並存の相対主義の行き着いた手詰まり状態を打破する、一つの手がかりとなるのではないか、と考えております。

用語に関する第二の点といたしまして、本稿では「観念」という用語をなるべく使用しないようにいたします。その第一の理由は、観念という用語は、単なる意識から純粋理念非常にいたる、広い意味で使われており、単に観念と書いただけではその意味するところが不明確であること、第二に、「観念論」などの言葉にも見られますように、今日では「観念」という言葉の持つイメージが非常に悪い、という理由によります。

観念に代えて、本稿では「概念」という用語を使用いたします。「概念」は具体的事物と結びついた対象物の意味内容であり、「観念」という用語の持つ精神的な独立性とは異なっております。

「観念(イデア)」という用語は、ギリシャ時代の哲学思想から脈々と引き継がれた用語であり、博覧強記のデカルトにとってはこれを自らの思想の中心に据えることが当然であったのでしょう。

しかし、今日の日常世界ないし科学技術の世界では、この手垢のついたカビだらけの用語は、めったに使われることはなく、「概念(コンセプト)」という用語が幅広く用いられています。まあ、「アイデア」という用語なら多用されているのですが、これは少々意味合いが異なるのですね。

というわけで、本稿では概念という用語を主に用いることにいたします。もちろん、概念にもさまざまな種類と意味合いがあるのですが、これにつきましては、節を改めてご説明することといたしたいと考えております。