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「現象学と解釈学」を読む

昨日神保町をうろついて購入いたしました本のご紹介(その2)は、新田義弘著「現象学と解釈学」です。新田氏が雑誌等に発表いたしました論文を集めましたこの本は、お値段税別1,500円と、ちくま学芸文庫という文庫本にしては少々高めですが、本年8月10日の刊行と、非常に新しいのがうれしいところです。

1. 真理から仮説に

このところ、本ブログで、フッサールの現象学についていろいろと議論してきました。まあ、議論というよりは、フッサールの思想をめぐって徘徊を続けていた、というのが実情なのですが、同書はフッサールの現象学を理解する上で、いくつかのヒントを与えてくれます。

まずは、先日のこのブログで議論いたしました、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(以下、危機書と表記)」を著しました動機なのですが、新田氏の説によりましても、ニュートン物理学の否定がその根底にあるようです。この部分を本書から引用いたしますと、次のようになります。

一切の具有性、特殊性、個別性を消滅させる因果決定論の従前なる支配をいい表わした標語、デュ・ボワ=レイモンの命名するところのいわゆる「ラプラスの魔(デーモン)」の語に象徴される、19世紀におけるニュートン物理学的世界観の極点到達への動きは、同時に、その理論優位の枠組みの解体を引き起こすことになった。およそ認識というものには完全性ということはありえない。科学の合理性はむしろ生きられた現実を倒錯するものではないか、という疑いは次第に蔓延しそれ自体ひとつの反科学的な思想の形成へと導かれるが、同時に、科学や哲学を「理論」や不変の「思惟」から解放して、生きられた経験から力動的に捉えなおそうとする運動もまた起きてくるのである。そして従来、「理論」や「思惟」から駆逐されていた「経験」や「生」の概念が新たな意義をもって登場してくることになる。(色付けは筆者。以下同様)

ここでいう「ラプラスの魔」、とは、「全ての運動を把握した悪魔は、宇宙の動きを完全に予想しうる」、という意味でして、ニュートン力学が正しいとすればこの結論に至ります。

ここで新田氏が述べていることは、ニュートン物理学的世界観の極点到達への動きその理論優位の枠組みの解体を引き起こすことになったという点につきまして、私の認識と一致するのですが、その枠組みの解体の原因が、思想的運動の帰結にあるとの新田氏の説明は少々うなづけません。「危機書」にフッサール自身が書いているように、ニュートン力学の枠組みが解体されたのは、相対性理論と量子力学の登場によるものでした。そして、この物理学上の大変動が、かつて究極的真理とみなされた物理法則の地位を、絶えざる検証によって真実性を裏書される仮説の地位にまで、格下げしてしまったのですね。

2. 物理学者と哲学者

どうもこのあたり、哲学者と物理学者の仲の悪さを感じさせる書き方でして、「物理学は自ら基礎付けを行っているから、哲学者の出番はない」などと物理学者に言わしめる原因となっているのではないかと思います。実際問題として、物理法則に対する見方を変えたのは、物理学者の自発的な動きによるものであって、哲学は単にその正当性を追認しているだけのように、私には感じられます。

とはいえ、新田氏もこのあたりの事情を以下のように記述しております。

歴史科学の研究実践において既に気づかれていた理論理性と実践理性の相互媒介の仕方は、科学一般において、つまり自然科学の研究実践にも現れつつあった現象であった。科学的認識のプロセス化(Prozessualisierung)は、科学の現在が「進展を保証する規則にしたがう活動」として、つねに「途上に在ること(ein Unterweg-Sein)」であることを告げている。しかもこの過程は、周期的なものを許さない加速化される過程であると共に、耐えず可謬的でしかも修正可能な性格を有し、常に革新(Innovation)を促す過程なのである。のちにフッサールが経験の分析をとおして明らかにしたようにさらにまた今日、カントの実践哲学が解釈学的に捉え直されて新たに活性化してくる仕方にもうかがわれるように、真理自体は統制的イデーであり、われわれの認識や経験はそれに向かって限りなく接近してゆく実践にほかならないのである。すでにこの実践哲学的な科学論の成立を促すものが科学の研究状況のなかに用意されつつあったのである。

まあ、私などからみますと、相対論と量子論がニュートン物理学の絶対的性格を粉々にしてしまった、という、物理学側の事情をはっきり書いてしまった方が、はるかにわかりやすいのではないかと思うのですが、哲学の道を歩む方々には、このような記述の方がわかりやすいのかもしれません。でも、こういったことは、フッサールだって、きちんと書いているのですが、、、

とはいえ、上の引用部で赤く表示いたしました部分は、物理学側が自ら枠組みを変更している点に触れておりまして、まことにフェアな書き方である、とは思います。

3. 生活世界

もう一点、同書で目から鱗となりましたことは、フッサールの「危機書」にあります「生活世界」のわかりにくさです。新田氏によりますと、フッサールはこの言葉を多義的に用いており、これを単一の意味として解釈しようとするのが、そもそもの間違いだ、ということです。新田氏は次のように書きます。

結局のところ、『危機』に登場する生活世界は「直接的な記述の対象」であるというよりも、「方法的な狙いを持った遡及的な問いの対象」として、さまざまなコンテクストにおいて多義的に語られている。科学の対象の意味「基底」としての役割、超越論的還元への「指標」の役割、さらに諸々の形態をとる歴史的特殊世界(Sonderwelten)の前提となるひとつの生活世界等々として、これらのさまざまな遡及的問いの対象として用いられている。

たしかに、生活世界はそこで全てが行われる場ですから、学問研究の対象であると同時に、人々が生活の糧を得る、仕事の場でもあるわけです。このため、多義的に扱われるのは仕方がないのですが、それにしても同じ用語をいろいろな意味に用いるのであれば、何らかの識別が可能な表現とすべきであったのではないか、と思います。まあ、そういったことができない事情というものも重々理解はしているのですが。

さて、今回ご紹介いたしましたのは、新田氏の「現象学と解釈学」の第8章「フッサールによる科学の客観主義批判」の部分だけでして、これ以外にもさまざまな内容が同書には含まれております。今回は、特に私にとって興味深い部分のみご紹介いたしました。残りの部分につきましては、何らかの機会がありましたらご紹介することといたします。なんとなくそんな機会はないのではなかろうか、なんて気もするのですが、、、

とにもかくにも、「現象学による客観性の解釈」という同じ対象に対して、種々のアプローチを試みるのは、対象に対する理解をより深めるという効果があります。そういう意味で、この本は大変に興味深い本であった、と思います。