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客観に関する考察

このブログでは、少し前から、「オブジェクト指向の哲学」なるものを構築しようと色々と考えてみたり、書物に当たったりしておりましたが、日曜日のこのブログブリタニカ草稿を読みまして、どうやら現象学についても大体のところがわかりました。

デカルト的省察で、フッサールは客観の再定義を行っていると、これもこのブログでご説明いたしましたが、この考え方は慧眼であると思います。

そこで、これらをベースに、私の考え方をまとめておきたいと思います。

まず第一に、思惟する主体としての自分自身があることは確かです。さしあたり主観はあります。主観のしていることは、知覚情報をパターン認識して、概念として理解していること。物を見れば、見えていない部分もわかるし、それが食べ物なら味もわかります。これは、物の像をりんごならりんごという概念に変換して意識しているからなのですね。

第二に、私の外部に、私の主観とは独立した世界があることもまた確かでして、その世界がアテになること、すなわち、ある種の保存性があり、一定の法則性の元で動いていることも私は確信しています。まあ、わかりやすくいえば、昨日買って冷蔵庫に入れておいたビールは、今日も確かにそこにあり、ちりんちりんに冷えている、というわけです。

注意すべきことは、この外部の世界は客観ではありません。主観にせよ客観にせよ、概念として世界を把握する以上は、そこに精神的な主体が存在しなければなりません。

外部にある世界は、名もなく区切りもない、混沌としかいえないものであり、ただしそこに、人はさまざまな概念を見出すわけです。まあ、混沌という概念を使うのも、実は駄目でして、混沌という言葉の提唱者、老子によりますと、混沌に名前を付けて目鼻をつけたら死んでしまった、ということです。

しかしこの老子という人はすごい人でして、ラオの定理という、老子の考え出した継子算というクイズ的数学定理は、ハードディスクなどのエラー訂正の一つの原理として、最近でも使われていました。それからこの方、童貞であった、ということが、「未だ牝牡(ひんぼ)の交わりを知らず」などという格調の高い文章で表現されております。まあ、このあたりはどうでも良いことなのですが、、、

さて、次に、人は他者を、自らと同じような主観をもつ存在であると認識しており、他者とコミュニケーションを繰り返す中で、その主観の相違を知り、ともに受け入れることのできる世界像を作り上げていきます。これが客観でして、客観は主観の中にあるのですが、他者の主観とも折り合いを付けているという意味で主観の外にあり、フッサールの言う、相互主観性の上に客観は形成されるわけです。

このあたりの事情は、単に自省によって得られる知識ではなく、以前のこのブログご紹介いたしましたうぬぼれる脳に書かれているように実証された事実、であるわけですね。

ところで、われわれの外部にある、混沌的物理的世界は、他者もそこに私と似た概念を見出します。このため、この世界を客観世界と呼びたくなるわけですが、客観とはあくまで概念の世界であって、精神活動の主体のみが持つことのできる世界なのです。

さて、客観を担う精神的な主体は何か、といえば、互いにコミュニケートする人々の集まり、すなわち社会ということになり、社会の主観が、これを構成する個人にとっては客観、ということになります。

社会が精神的な活動の主体たりえるか、と問われればその答えはイエスであり、社会というものは、実は人という精神的な活動を担うパーツを、コミュニケーションチャンネルで接続してなる知的な装置である、とみなすことができるのですね。

もちろん、社会を構成する個人の主観の中にも客観的世界は存在します。しかしそれは完全なものではありません。たとえば、物理学という学問体系を今の人類社会は持っているのですが、個人の主観の中にあるのはその不完全なコピーにすぎず、学問体系の全体は人類社会、ないし、その中でも、物理学に関わる学術社会がもっている、ということができるでしょう。

さて、社会は単一ではなく、小は仲間同士の集団から、大は国家、更には全人類と、さまざまな規模の社会が重層的に存在しています。この中で、それぞれの社会の精神活動は、その内部に対しては客観として、外部に対しては主観として現れる、というわけです。