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利根川進×立花隆の「精神と物質」を読む

さまざまな最新科学技術に首を突っ込んでおります立花隆氏がノーベル賞科学者の利根川進氏にインタビューしてできた本「精神と物質」は、ちょっと古いのですが、なかなか面白い内容を含んでいます。文春文庫の定価691円は、お買い得、といえるのではないでしょうか。

ノーベル賞

まあ、この本の題名であります、「精神と物質」は、まさにこのブログで議論しております哲学的テーマにぴったりの印象を受けるのですが、立花氏の関心事は、ノーベル賞。

まず立花氏は、マスコミの寵児的存在。世間の関心事は、どうやったらノーベル賞が取れるだろう、ということにあると、立花氏も、文芸春秋社も考えたのは、まず当然のところでしょう。この本の初版が出ました1990年は、利根川氏がノーベル賞を受賞した1987年の3年後という時期であることも考慮に入れておく必要があります。

で、同書の最初の部分は、ノーベル賞、ノーベル賞、でして、このあたりは今読んで少々興醒めなのですが、さすがに病原菌に対抗する動物に備わった機能であります、免疫現象のなぞに迫る部分は、なかなか読み応えがあります。ただこの部分、本ブログのテーマからは、相当にずれてしまいますので、ここではご紹介をスキップいたします。

唯物論的唯心論者

面白いのは、最後の部分です。ここでは、同書の終わりの部分から、利根川氏と立花氏の会話を、シナリオ風にアレンジして引用いたしましょう。

利根川:われわれの自我というものが、実はDNAのマニフェステーション(自己表現)に過ぎないんだと考えることも出来るわけです

立花:そこまで極端に物質に還元してしまうと、自己というものがなくなってしまうんじゃありませんか

利根川:いや、あのね、もうひとつ極端なことをいうと、ぼくは唯心論者なんです

立花:唯物論のまちがいじゃないですか

利根川:いや、唯物論的だけど唯心論なの。つまりね、我々がこの世界をこういうものと認識していますね。これがコップでこれがヒトだと。こういう認識は何かというと、結局、ぼくらのブレイン(脳)の認識原理がそうなっているからそういう認識が成立しているということですよね。もし、我々のブレインと全く異なる認識原理を持つブレインがあったとしたら、それがこの世界をどう認識するか全くわからないですよね。だから、この世がここにかくあるのは、我々のブレインがそれをそういうものとして認識しているからだということになる。同じ人間というスピーシズ(種)に属する固体同士で、同じ認識メカニズムのブレインを持ち、それによって同じコンセプト(概念)を持ち合っているから世界はこういうものだと同意しあっているだけということでしょう。つまり、人間のブレインがあるから世界はここにある。そういう意味で唯心論なんです

立花:そうするとね、そういう認識主体としてのブレインが一切なくなってしまった世界というものはどうなるんですか。それは存在しているんですか。存在していないんですか。

利根川:うーん、それはね、ぼくらのブレインの理解能力をこえているから、わからないというほかないだろうね。サイエンティストというのは、本質的に理解能力をこえたものや、実現の可能性がないと直感的に判断したことは、避けてとおるクセがあるのです

ね、面白いでしょう。なにやら、人間原理、に近いようなところまで、話は発展しております。

利根川氏の脳の研究

実は利根川氏、免疫の研究で有名なのですが、脳の研究にも造詣の深い方なのですね。で、脳の機能を突き詰めていけば、ヒトの世界認識にも興味が及び、メタフィジックス(形而上学、ま、哲学といったほうが良いかも知れません)まで思いは及ぶ、ということなのでしょう。

このあたり、同じ自然科学の世界に属する人たちであっても、物理学者とは相当に異なる世界認識をお持ちです。