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養老孟子「唯脳論」を読む

このブログでは、精神と物質、主観と客観などに関する考察を行っております。で、ちょっと古い本ですが、「バカの壁」でおなじみの養老孟子氏の著作、「唯脳論」を読みました。本日はその感想などをご紹介いたしましょう。

まず、養老孟子氏は、よく知られたように、解剖学者で、特に脳をご専門とされている方です。この本も、脳に関する記述は大変興味深いものがあり、特に、解剖学的、形態学的な脳という切り口では、他の書物にない情報が含まれているように思います。

まあ、少々グロテスクな記述や挿絵は、著者の露悪趣味的な部分の表れではないかと思いますが、これに関しては、好悪が分かれるところでしょう。少なくとも、食事しながら読むような本でないことだけは確かです。

ただ、著者がこの本で主張したいことは、「唯脳論」という書名にも明らかなように、唯物論や唯心論に対する一つの「哲学」なのでしょう。しかし、これに関しましては、完全にピントが外れているように思われます。この点につきまして、以下、私の思うところを述べたいと思います。

まず第一に、解剖学者としての基本的スタンスは、脳は眼前の物体である、という経験に裏打ちされた強い信念です。もちろん私もこれを否定はいたしません。

次に、その脳が人の精神的働きを担っていると述べます。この点につきましても、誰も否定しないでしょう。で、「唯脳論は、実は身体一元論と言ってもいい」とまで言い切ってしまいます。

実際問題として、自然科学を受け入れる一方で超自然的存在を認めない立場にたつかぎり、身体一元論は否定できないところです。つまり人間とは、物質であり、究極的には物理法則にまで還元される自然法則に従う存在である、という点につきましては、私も、まことにごもっとも、と思います。

まずこの部分は意見の分かれるところなのですが、これに関しては、私は養老氏の説を受け入れます。つまり、人の精神は脳の働きによるものであり、脳の機能は神経細胞の活動によるもので、何ら超自然的要素が働いているわけではない。すべては自然法則に支配された現象である、という点は、私も、受け入れているのですね。

しかし一方で、人の世界観は、脳の働きに還元することができません。少なくとも、現実の諸問題を解決しようとするとき、それを自然現象で説明したところで何の解決にもならないケースが多い。といいますより、脳の機能を説明することで解決されるケースなど、医学的な問題や、自然科学の探求など、きわめて限られたケースでしかないでしょう。

となりますと、我々は世界を別のやり方で記述し、理解するしかありません。世界が書物であるとすれば、それを、セルロースに付着したインクであると説明するのが自然科学的アプローチなのですが、書物を読み、内容を理解するというアプローチもまたとり得ますし、いずれが他方と相容れない、というものでもありません。

ちょっと考えてみればわかることなのですが、本をカーボンが付着したセルロースとみなし、それが人に対する効果をニューロンの働きで説明することは、原理としては可能であるはずです。

しかし、セルロース上に付着したカーボンのパターンというのは、書物のただの一ページを取り上げましても極めて複雑で、それが人のニューラルネットワークに及ぼす作用となりますと、事実上、解明することはできません。あたりまえの話ですけど、本を読むなら、そこに書かれたものの意味するところを語った方が、よほど、現実的なアプローチなのですね。

ちなみにこのブログにおきましても、さまざまな書物をご紹介しておりますが、これらの書物の自然科学的存在形式、すなわちインクの付着したセルロースの束におけるインクの付着パターン、ないしそれがニューラルネットワークに及ぼす効果、などに関する議論は、まったく行っておりません。

もちろん、そんなことはあたりまえの話でして、本は、人がそこから読み取る内容、をもって語られるべきであること、論を待ちません。

結局のところ、自然科学的、分析的、還元的アプローチからは、人の精神は脳の機能であり、自然現象として説明できるはずだ、との強い信念を抱くことは、脳にかかわる科学者としては当然の立場ではあるのですが、現実世界の問題を解決するためには、また別の視点も必要である、ということでしょう。

この第二の視点こそ、心身二元論のデカルトも、純粋自然科学に対称な純粋心理学に解決の糸口を求めたフッサールも、その他の哲学者も、共通して追い求めたものではないか、と思います。

唯物論にも、唯心論にも、一面の真実があるのですが、それだけでは不十分である、というのが私の今の考えです。と、いうわけで、唯脳論は、却下、です。

ま、ユニークな、面白い本、ではありますが、、、


ところで、p122のデカルトのコギト、同書によりますと、以下のように書かれています。

「考える」主体などというものは、言語の形式上、ここに紛れ込んできたものであって、そんなものはもともと要らない。
……
ところで、デカルトはこのことに気がついていたのではなかろうか。というのは、かれの言い方は、ラテン語でcogitoだからである。ここには「我」という主格が独立の語としては現れていない。……脳の話に「我」が入るのは、話をややこしくしこそすれ、単純にはしない。

デカルトの「われ思うゆえに我あり」は、ラテン語で言えば、「エゴ・コギト・エルゴ・スム(ego cogito, ergo sum)」です。デカルトさん、主語のegoも、本にはきちんと書いているのですが、一般には、この言葉、日本では「コギト・エルゴ・スム」と言われているのですね。極端な場合は、「コギト」。

まあ、ラテン語には格がありますから、コギトやスムは第一人称、ということなのでしょう。私の知る数少ない大陸系言語でありますセルボ・クロアチア語では、ヤー・サム・xxなどというのは、私はxxである、という意味ですから、sumはたぶんbe動詞の第一人称変化だと思いますよ。これだけでも、主語は確定しているのですね。

ラテン語の文法に関しては、このページなどが参考になります。ネギま!のファンは要チェックなページですね。ま、呪文の意味まで理解したい場合、の話ですが。ちなみにコギト・エルゴ・スム、このページでもegoは省略していますね。

ありゃりゃ? こっちのページでは、わかりきった場合は主語 (ego) を省略するのが普通、とか。デカルトの本には、日本語訳だったのですが、わざわざ括弧をつけてラテン語が入っておりまして、それには、egoが付いていたのですが、、、

ふうむ、文語と口語が違う、のかな? ラテン語なんて、文語しかないような気もするのですが、、、

いずれにせよ、この言葉でデカルトが言いたかったことは、考える主体にとって考えている主体自体の存在は否定できない、ということであって、主観の存在をまず肯定した、ということです。これは、客体(主観が意識する対象)としての脳の存在を認めたという意味とは、相当に異なるように思います。

で、主観ですから、これは第一人称をもって語られるしか、ないように思うのですが。