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ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む

以前のこのブログで「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」を読んだのですが、今回はその大元の、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読みましたので、その感想などをご紹介いたしましょう。

1. ヴィトゲンシュタインの偏屈ぶり

まずこの本、はっきり言って、普通の人が読むような本ではありません。それが文庫本になるというのが、まず、理解できないのですが、岩波文庫のこの本、2003年の初版で、2006年7月25日に第11刷を発行しております。つまり、結構売れているんだ! 今の日本に変な奴が多いこと、大いに驚きではあります。って、他人のことを言えないのですが、、、

で、本日ご紹介いたしますのは、その内容も、なのですが、この本の際立った特長、といいますか、著者ヴィトゲンシュタインのユニークさに触れないわけにはまいりません。

まず、出だし、「序」の最初の部分で、一発がつんとやってくれます。

おそらく本書は、ここに表されている思想―ないしそれに類似した思想―をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。―それゆえこれは教科書ではない。―理解してくれた一人の読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。

Project Gutenbergにアップされております英語版“Tractatus Logico-Philosophicus”のこの部分は以下の通りです。

This book will perhaps only be understood by those who have themselves already thought the thoughts which are expressed in it—or similar thoughts. It is therefore not a text-book. Its object would be attained if there were one person who read it with understanding and to whom it afforded pleasure.

まずここで、ヴィトゲンシュタインは、この本が理解されるであろう、とは全く期待しておりません。で、最後では以下のように述べます。

6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。

7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

原文は以下の通りです。

6.54 Meine Sätze erläutern dadurch, dass sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie - auf ihnen - über sie hinausgestiegen ist. (Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.)
Er muss diese Sätze überwinden, dann sieht er die Welt richtig.

7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

英語版は以下の通りです。

6.54 My propositions are elucidatory in this way: he who understands me finally recognizes them as senseless, when he has climbed out through them, on them, over them. (He must so to speak throw away the ladder, after he has climbed up on it.)
He must surmount these propositions; then he sees the world rightly.

7 Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.

まあ、これでこの難解な本を、最初から最後まで読んでしまったというわけにはいきませんが、それにしてもこのヴィトゲンシュタインの偏屈ぶりはすごい

で、このあとに、「バートランド・ラッセルによる解説」というのが付いているのですが、これを巡るお話(訳者の野矢茂樹氏による)には、唖然とさせられます。それによりますと、無名のヴィトゲンシュタインの本を出版させるため、哲学者として名を成していたラッセル卿が、自らが序文を書くという条件で出版させたとのこと。この序文に対して、ヴィトゲンシュタインは大いに不満であったとのことです。つまり、序文が間違っている、というわけですね。

で、実は、賢者として名高いラッセル卿も、その序文において、ヴィトゲンシュタインの思想を間違って理解していたとのこと。まあ、ヴィトゲンシュタインの文句は理由があることではあるのですが、それにしてもなあ、と思いますよねえ、普通なら。

2. 論理を扱う

さて、その内容ですが、まず、ヴィトゲンシュタインは「本書は哲学の諸問題を扱っており」というのですが、「論理哲学論考」という表題から明らかなように、「論理」を扱う書物である、という側面が強いのですね。

で、「論理」というものに対する私の認識を明らかにしておきますと、「論理は人が頭で考えたこと、ないし、その筋道」でして、人の主観に属するもの、ないしフッサール的「客観」、すなわち主観の他者と共通と確信されている部分、に属するものです。

ヴィトゲンシュタインは「本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる」と述べるのですが、哲学と銘打つためには、その真理の性格についても語る必要があったのではないか、と思います。

まず、本書が論理学の書物として優れていることは確かなのでしょうが、この点は私の関心外でして、論理なり真実なり世界なりを人がどのように認識するか、という点からこの本を読んでみたいと思います。

さて、本文の最初の部分で、ヴィトゲンシュタインは次のように世界を規定いたします。

1 世界は成立している事柄の総体である。
1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
1.11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
……
1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

原文(ドイツ語)は以下の通りです。

1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.
1.1 Die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen, nicht der Dinge.
1.11 Die Welt ist durch die Tatsachen bestimmt und dadurch, dass es alle Tatsachen sind.
1.12 Denn, die Gesamtheit der Tatsachen bestimmt, was der Fall ist und auch, was alles nicht der Fall ist.
1.13 Die Tatsachen im logischen Raum sind die Welt.

英語版は以下の通りです。

1 The world is everything that is the case.*
1.1 The world is the totality of facts, not of things.
1.11 The world is determined by the facts, and by these being all the facts.
1.12 For the totality of facts determines both what is the case, and also all that is not the case.
1.13 The facts in logical space are the world.

つまり、論理哲学の対象となります世界は、ものの総体ではなく事実の総体でして、それも、論理空間の中にある諸事実である、というのですね。このような考え方はさほど特異なものではなく、たとえば、先日のこのブログで、ポアンカレの「科学の価値」を読みましたが、その中でポアンカレは客観について次のように語っています。

たとえば、外的なものは、そのために客観的なものという言葉が作られたのであるが、それはまさに客観的なものであって、見えたかと思うとたちまち逃げ去って捕らえることのできない外見なのではない。客観的な対象は、単に感覚の寄り集まったものであるばかりでなく、常住普遍な絆によって結び付けられた集まりなのである。外界の事物において客観的なものはこの絆であり、またこの絆のみなのである。そして、この絆こそは、すなわち、関連のことなのである。

英語版では以下の通りです。

External objects, for instance, for which the word object was invented, are really objects and not fleeting and fugitive appearances, because they are not only groups of sensations, but groups cemented by a constant bond. It is this bond, and this bond alone, which is the object in itself, and this bond is a relation.

つまり、外界の事物において客観的なものとは、単なる外見ではなく、人の知識体系の中における事物の位置付けである、ということなのですね。で、この概念が他者と共有されることが客観の条件である、とポアンカレは説きます。

一方のヴィトゲンシュタインが追求するものは、論理そのものであり、いったん世界を規定した後は、この世界の内部で論理を語る、という作業を続けるわけですが、ヴィトゲンシュタインの論理学の詳細に踏み込むことは、このブログでは遠慮したいと思います。もちろん、この本の真の価値は、このブログで触れていない部分にある、ということは否定いたしませんが。

3. 語りえぬもの

さて、物理学者が、外界の事物そのものと、これに対して人々が見出す概念(すなわち知識体系との関連性)を同一視する傾向がある、ということを以前のこのブログで書きました。この混同が、人間原理の元になっておりまして、人が観測できようができまいが、混沌としての外界は存在するとしか言いようがありません。観客のいない劇場でも、宇宙は劇を演じつづける、というわけです。

もちろん、そこにさまざまな概念を見出すのは、精神的働きのなせるわざであり、精神的な働きが介在しない宇宙は、名前もなく、区切りもない、混沌という以外に表現のしようのない存在なのですね。

そして、精神的働きが存在していても、語りえぬものについては、沈黙せねばならない、つまり、その精神的主体が知りえない事物については語ることができません

だから、シュレディンガーの猫は、生きているか死んでいるか、観察するまではわかりませんし、光子がどのような軌道を通ったか、などというようなことも、それを知りえないのであれば語りえません。

で、このような考えを推し進めると、独我論唯心論にとらわれるリスクがありまして、ヴィトゲンシュタインも独我論と同一の立場にたっているように見受けられます。この部分を以下に引用しましょう。

5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
5.633 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
……
5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される。
5.641 それゆえ、哲学において、自我について心理学的にではなく論じうる意味が確かにある。

自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入り込む。

哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の―部分ではなく―限界なのである。

原文は以下の通りです。

5.632 Das Subjekt gehört nicht zur Welt, sondern es ist eine Grenze der Welt.
5.633 Wo in der Welt ist ein metaphysisches Subjekt zu merken?
Du sagst, es verhält sich hier ganz wie mit Auge und Gesichtsfeld. Aber das Auge siehst du wirklich nicht.
Und nichts am Gesichtsfeld lässt darauf schließen, dass es von einem Auge gesehen wird.
5.6331 Das Gesichtsfeld hat nämlich nicht etwa eine solche Form:
Auge —
5.634 Das hängt damit zusammen, dass kein Teil unserer Erfahrung auch a priori ist.
Alles, was wir sehen, könnte auch anders sein.
Alles, was wir überhaupt beschreiben können, könnte auch anders sein.
Es gibt keine Ordnung der Dinge a priori.
5.64 Hier sieht man, dass der Solipsismus, streng durchgeführt, mit dem reinen Realismus zusammenfällt. Das Ich des Solipsismus schrumpft zum ausdehnungslosen Punkt zusammen, und es bleibt die ihm koordinierte Realität.
5.641 Es gibt also wirklich einen Sinn, in welchem in der Philosophie nichtpsychologisch vom Ich die Rede sein kann.

Das Ich tritt in die Philosophie dadurch ein, dass »die Welt meine Welt ist«.

Das philosophische Ich ist nicht der Mensch, nicht der menschliche Körper, oder die menschliche Seele, von der die Psychologie handelt, sondern das metaphysische Subjekt, die Grenze - nicht ein Teil - der Welt.

英語版は以下の通りです。

5.632 The subject does not belong to the world but it is a limit of the world
5.633 Where in the world is a metaphysical subject to be noted?
You say that this case is altogether like that of the eye and the field of sight. But you do not really see the eye.
And from nothing in the field of sight can it be concluded that it is seen from an eye.
5.634 This is connected with the fact that no part of our experience is also a priori.
Everything we see could also be otherwise.
Everything we describe at all could also be otherwise.
There is no order of things a priori.
5.64 Here we see that solipsism strictly carried out coincides with pure realism. The I in solipsism shrinks to an extensionless point and there remains the reality co-ordinated with it.
5.641 There is therefore really a sense in which the philosophy we can talk of a non-psychological I.
The I occurs in philosophy through the fact that the "world is my world".
The philosophical I is not the man, not the human body or the human soul of which psychology treats, but the metaphysical subject, the limit -- not a part of the world.

ここで、「純粋な実在論」には訳注がついておりまして、これによりますと、「実在を主観から独立にあるものとして捉える立場」と書かれているのですが、ここは、デカルト流の、「我思うゆえに我あり」ではないかと、私は、解釈いたします。

結局のところ、ここでヴィトゲンシュタインが述べておりますことは、かれが論じている世界の中に、考えている主体は含まれていない、ということです。考えている主体は世界の限界である、すなわち、精神的主体の中に世界は存在する、というわけです。

このような考え方は、以前ご紹介いたしましたファインマンの立場と類似しておりまして、客観世界を外的世界とする一方で、これとは別の研究者の精神を論じる、ということも出来るわけです。もちろん、ファインマンはがちがちの唯物論者であるように見受けられるのですが、ひとたび研究者自身の精神を考察の対象に加えれば、以前ご紹介いたしました利根川氏と同様、唯心論に傾斜していく可能性もあるのですね。

しかし、ヴィトゲンシュタインは、このあたりの部分もきっちり考えておりまして、論理哲学は精神的主体の内部の世界を扱うものであって、精神的主体そのものがこの世界の限界を与えるという点について、きちんと述べております。さすがに、ラッセル卿が驚嘆するだけの英知、ではあります。

4. 論理的思考の限界

このあと、ヴィトゲンシュタインは、さまざまな超越論的(論理の枠外の)存在について議論いたします。世界の意義、倫理、宗教、形而上学、、、

しかしこれは、ヴィトゲンシュタインの論理学の限界を語っているものであり、これらについて語ることが不可能であるということを証明しているわけでもなさそうです。

フッサールポアンカレの言う「客観」、すなわち他者と共有できる主観の一部、もしくは、私流に言えば「社会の主観としての客観」についても論を広げなければ、そもそも論じること自体の意味が不明瞭になってしまうでしょう。

結局のところ、ヴィトゲンシュタインの論理学は、主観の枠内での論理学としては優れたものであるのかもしれませんが、主観を取り巻く世界にひとたび関心の枠を拡大するとき、論理哲学は哲学としての価値を失ってしまいます。この広い世界で哲学を哲学であらしめるためには、主観そのものを考察の対象とする必要があるのですね。

この本の終盤付近で、記述が、すかすか、といいますか、論理の密度が低下しているような印象を受けますのは、実は、ヴィトゲンシュタイン自身が、この本の終わりあたりを書いているときに、この点に気づいていたからではないか、と思うのですね。

なにぶん、ヴィトゲンシュタインの論理哲学は、ナンセンスであると気づく必要があるなどと、ご当人が書いているわけですから、、、