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リオタール「現象学」を読む

ジャン・フランソワ・リオタール著「現象学」という本を本屋で見つけて、思わず買ってしまいました。本日は、この本を読んでみることといたしましょう。

1. 思想家ジャン・フランソワ・リオタール

このリオタールという方、訳者前書きには「著者については、P.U.F.に問い合わせたがまだ返事がなく、残念ながら何もわからない。しかし本書の内容から察するに、おそらくメルロー・ポンティの弟子の一人だろうと想像される」などと書いてあります。まあ、1964年12月の記述ですから仕方がありませんね。

もちろん今日では、Wikipediaがありますから一発でわかります。急進的マルクス主義者ですかあ、、、

などというお遊びはやめておきましょう。もちろんフランソワ・リオタール氏、「ポスト・モダンの条件」で、思想界の一大潮流となりましたポストモダンに火をつけたお方。この本につきましてはこのブログでもご紹介しております。ちなみに本は売り切れの様子です。ま、これだけの本ですから、再版なり、文庫化なりされるのではないかと思いますが、、、

それにしても、以前ご紹介した「よみがえれ、哲学」は、現象学者のポストモダン批判という趣があるのですが、ポストモダンに火をつけたのが現象学者であるということは、一体どういうことでしょうか? その論理的流れやいかに?? ま、リオタールさん、現象学から急進的マルクス主義、そしてポストモダンと、機を見るに敏なお方、ということなのでしょうかね?

と、まあ、茶々はこの辺にして、内容のご紹介とまいりましょう。なお、本書は「フッセル」と表現しているのですが、このブログでは、これまでとの整合性を保つため、引用部を含めて「フッサール」と表記するようにいたします。

2. 現象学のアプローチ

この本は二部構成で、第一部が「フッサール」、第二部が「現象学と精神科学」と題しまして、フッサール以後の現象学を取り巻く状況について議論しています。

で、フッサールの考え方につきましては、いくつか目から鱗の部分があります。まず第一に、イデーン27節からの引用がありまして、われわれを取り巻く外界についてフッサールが明確に記述していることが紹介されます。これ、私がこのブログで書くところの、混沌としての外界、ですね。

まあ、イデーンにつきましては、いずれきっちりご紹介できれば良いのですが、「イデーン(1ー1)」「イデーン(1ー2)」「イデーン(2-1)」「イデーン(2ー2)」など(2-1を発見しましたのでリンクを追加しました)、それぞれがアニメDVD並みの価格の本でして、買うのも大変なら、読むのも大変そうで、よほど本気にならない限り、ちょっと読む気力が起きない本ではあります。

もう一つは、フッサールの現象学の前にありましたのが「心理主義」、ということで、人の意識を心理学で説明しようという行き方です。まず、フロイト流の、精神医学としての心理学は、人を対象(客体)として扱いますので、結局は人体機械論、唯物論に行ってしまいます。

一方、内省から自らの心の働きを解明しようというアプローチであれば、フッサールのアプローチに近いのですが、これに人の心の働きを説明しようという意図が加わると、結局は上と同様の、客体的アプローチとなってしまいます。

フッサールが現象学的還元という、厳格なアプローチを必要としたのは、おそらく、心理主義との差異を明確にしたい、という動機によるものだったのでしょう。

このあたりは非常に微妙な点でして、哲学が哲学として成り立つか否かは、コギトの扱い如何にかかっている、といっても過言ではなさそうです。ま、私も注意することにいたしましょう。

3. 主観と客観が互いに他を否定するという問題

さて、リオタールの慧眼は、このあたりの問題の本質を、次のように、鋭く抉り出します。

近代的精神の特性は、論理的-数学的な形式化と、自然に関する認識の数学化である。つまり、ライプニッツの普遍学とガリレイの新しい方法論である。こういう基盤の上に、客観主義が展開するのである。ガリレイは世界を応用数学として示すことによって、意識の作品としての世界をおおいかくした。したがって客観主義的な形式主義は疎外的である。……

ときにこの疎外は、物的なものを手本として心的なものを構成するか、それとも心的なものを厳密に研究することを断念するか、二つのうちのいずれかを選ぶことを余儀なくした。

デカルトは先験的なモチーフを導入することによってこれの解決を予告する。コギトによって、現象としての世界、コギタートゥム cogitatum[思考されるもの]としての世界の真理が、彼に与えられる。

そのとき、魂および神という形而上学的なアポリアに通じる客観主義的な疎外は、消え去る―もしくは少なくとも消え去っていたであろう。もしデカルト自身がガリレイ流の客観主義に欺かれて、先験的コギトと心理学的自我を混同しなかったならば、そうなっていたであろう。

しかし、思考するものとしての自我というテーゼは、すべての先見的な努力を水泡に帰せしめる。ここから、デカルトの二重の遺産が出てくる。一つは形而上学的合理主義で、これは自我を消し去る。もう一つは懐疑論的経験主義で、これは知識を破壊する

客観主義にその真の根拠を与え、客観主義の疎外力を除き去るのは、ただ先験主義だけである。というのも、先験主義はすべての知識を根本的な自我の上に結びつけるが、この自我は意味付与者であり、直接的な生の世界の中で、客観化以前的な、科学以前的な生を生きているからである。

そして精密科学は、そういう生の外被でしかない。先見的哲学は、客観主義と主観主義、抽象的な知識と具体的な生との和解を可能とする。

この部分、英語版(La phenomenologie (1954))では次のようになっております。

What characteriizes the modern spirit is logico-mathematical formalization (the very thing which constituted the hope of the Logical Investigations) and the mathematization of natual knowledge: Leibniz's Mathesis Universalis and Galileo's new methdology.
It is on this basis that objectivism develops: in discovering the world as applied mathematics, Galileo recovered it as the work of consciousness (Crisis, sect. 9).

Thus objectivist formalism alienates: this alienation appeared as malaise when objective science lays hold of the subject; for we are then forced to choose between construing the psycogical after the model of physical, or renouncing any rigorous study of the psychological.

Descartes announced the solution in introducing the transcendental motif: by the cogito, the truth of the world as phenomena, as cogitatum, is restored, and the objectivist alienation leading to the metaphysical aporia of the soul and God are brought to an end -- or at least would be brought to an end, if Descartes had not himself been taken in by Galilean objectivism, and had not consequently confused the transcendential cogito whth the psychological ego.

The thesis of the ego res cogitans counteracts the entire transcendental effort.
Thus the double Cartesian heritage: the metaphysical rationalism that eliminates the ego, and the sceptical empiricism that destroys knowledge.

It is only transcendentalism -- articulatting all knowledge on a fundamental ego, which is the giver of meaning, and lives a pre-objective, prescientific life in an immediate "lifeworld" of which science is only the veneer -- which will give objectivism its true foundation and take away its power to alienate.

Transcendental philosophy makes possiible the reconciliation of objectivism and subjectivism, abstract knowledge and concrete life.

さて、この「先験的」ですが、Wikipediaによれば、最近は「超越論的」といいまして、今議論している論理の枠を超えた、というような意味です。まあ、枠を超えてはいるのでしょうが、これについても議論しなければならない、という、はなはだ困った状況ではあります。


2021.12.20追記:「先験的自我」なり「超越論的自我」に対応する英語 ”fundamental ego” は良いですね。これから改めて日本語に翻訳いたしますと「根源的自我」などという言葉が出てきます。これが一番しっくりするのではないでしょうか。

根源的自我に関わる論理は、次のように説明できそうです。

まず根源的自我の存在自体は、意味論的前提なり語用論的前提によりア・プリオリに(最初から)与えられます。これについては本ブログでも以前議論いたしました。

次に、根源的自我は、自分自身を取り巻く外の世界を認識しております。そしてそれは、「外の世界」として認識している一方で、その認識自体は己の精神内部に構成されていることも理解しています。これは、アポロンの彫像のようなもので、それはアポロンなのだが、あくまでアポロンの形をした大理石である、という理解ですね。つまり、「認識された外の世界」は、「その対象である外の世界」とは異なるもので、あくまで「精神内部に構成された世界」であって、外の世界のすべてに対応しているわけでもなく、誤認もあり得ることも理解しております。

また、根源的自我は、自らと同様の精神機能を持つであろう他者の存在を認識しており、そのような人々の集まりとしての社会が存在することも理解しております。これらも、自らの外部に存在する「外の世界」として認識しているのですが、その認識自体は己の精神内部にあることを理解している。

他者の集団としての社会、その中には己自身も含まれるのですが、その社会は様々な知識や手段を共有しており、言語、数学、科学は社会によって形成され、保持されており、根源的自我はその一部を(不完全な形で)受け入れていることもまた理解している。この過程で、教育制度や出版、報道などの社会的機能が大いに役に立っていることも認識しております。

そして、これらの知識の結果、根源的自我は己の身体という、外の世界に属する個体の内部に形成されていることも理解する一方で、その個体の内部に形成された根源的自我が、これらすべてを認識していることも理解している。

これらのあるものは実体であり、他のものは推論結果であって、これを整理すれば次のようになります。

まず、根源的自我の実在は明らかであり、これによる認識も、認識自体は実在する。その一方で、その認識の故にあると想定される「外の世界」は推論ということになります。もちろんその推論が十分な確からしさ持っているがゆえに、人は外界の実在を疑わないのですが、信頼すべき仮説の域を出ないというわけです。

ギリシャ時代の哲学者は、外界の事物こそが実在であると見なし、それがおのれの姿を人間精神に投影することにより、人に外界の事物を認識させてていたと考えておりました。つまり、外界の事物が実体(subject)であり、人による認識が人に投射された姿(object)と考えられていたのですね。

この枠組みをひっくり返したのがカントで、人は外界を知ることはできないとし、人による認識が実体(subject)であり、外界の事物は己の外界に関わる認識を外界の位置に投射(object)する形で認識しているのだと主張しました。ここで生じたsubjectとobjectの入れ替え、これをカント自身が「コペルニクス的転回」と呼んだのですが、この言葉の意味は忘れ去られ、こんにちではこの言葉の文字づらだけが使われております。

この言葉を使う人は、天動説と地動説の入れ替えを「コペルニクス的転回」と理解しているのではないかと思いますけど、それじゃあアナロジーになりませんよねえ。まあ、どうでも良いことではあるのですが。

2021.12.20の追記はここまでです。


2019.4.8追記:「先験的」の意味ですけど、これ、「先天的」と同義の用語で、「ア・プリ・オリ」というラテン語の成句に対応しているのですね。これを日本語に訳せば「最初から」というわけです。

先天的の反対語は後天的、こちらはラテン語で「ア・ポステリオリ」でして、経験により獲得される知識・情報などがこちらに分類されます。日本語では、「経験的」などの言葉を当てておけばよいのではないでしょうか。


2017.2.25追記:リオタールのいう「意味付与者」である「根本的な自我」は、ハイデガーのいう「ダーザイン」と同じことでしょう。ダーザインをわかりにくく言えば「存在者を存在者たらしめる存在者」ということになるのですが、「自我」ないし「この私」といったほうがわかりやすいかもしれません。

そういう意味では、「先験的自我」にせよ、「ダーザイン」にせよ、それですべてが解決するようなキーワードとは言い難いように、私には思われます。

4. 複数の枠組みという解

結局のところ、議論の枠をいくつか準備して、それぞれの枠内での議論を完結してから、次の枠内での議論に移る、といった手続きが必要になるのかもしれません。

たとえば、まず主観を認め、混沌としての外界を主観に対峙するものとして定義する一方で、主観の一部分であって他者と共有されたと確信する部分、といった形で客観を定義し、その客観の枠内で自然科学を定義する。その枠の中には、機械としての人体も含まれますし、それが精神的活動をするメカニズムも自然科学の枠組みで理解されます。

ただし、この枠内では、量子力学における観測問題は解決されませんし、客観的事実がどこまで正しいかという限界も明らかにはできませんし、そもそも何故に客観というものがありえるか、といったことも議論できません。

次に、その枠の外部に、客観とは何か、主観とは何かを議論する枠を設ける、というわけですね。マルチ・パラダイム・アプローチ、とでもいいましょうか、、、

その他、リオタール氏の指摘するフッサール現象学の弱い部分は、他者の存在でして、この部分の分析が弱い、と指摘いたします。

これは私も感じている部分でして、そもそも人の精神的機能は、他者の集団であります社会の中で育まれたもの。精神的機能を有する存在としての社会について分析し(私的には、社会の主観が客観である、ということですね)、社会のあり方、及び社会と人との関わりについて、掘り下げた分析が必要なのではないか、と思う次第です。

なお、第二部以下は省略いたします。メルロー・ポンティの弟子とも目されたリオタール氏、ゲシュタルト心理学に傾倒するポンティのアプローチを肯定的に見ているのですが、私は否定的。ゲシュタルト心理学といえど、所詮は心理学であって、脳内の情報処理と同じ地平で語られるべき議論ではないか、と思う次第です。


2018.8.19追記:「カント式の世界認識と物理学」と題するページに、この問題の私なりの解を記しました。


2019.4.28追記:結局のところ、「先験的自我」すなわち、「私」は最初から存在するものとして与え、以後の議論でもこれ自体には手を加えないという方向が妥当であるように思われます。

デカルトのコギトについては、別のところでも議論しましたが、「われ思う」の中にすでに自分の存在が含まれており、「ゆえにわれあり」は証明でも何でもない、トートロジーにすぎないということをご説明しました。(2020.2.5追記:これはトートロジーではなく、意味論的前提である、と修正しております。こちらのページをご参照ください。)

「われ思う」としてわれの存在を前提とすることは、上に書きました先験的自我を認めることに他ならないのですが、何かを論じる以上は、論じる主体の存在は前提として与えるしかなく、先験的自我を認めることは妥当な前提であるといえるでしょう。

ここでこの先験的自我を物理法則にしたがう自然現象として説明すると、自我自体が消え去ってしまうとリオタールは主張します。確かに、自然現象なら、自由意志も存在しないと考えるしかなく、以前議論いたしましたカントの第三アンチノミーという二律背反に陥ってしまいます。

これに対して前回与えました解は、「主体は科学の対象外」とするものであり、そもそも自然科学はこれを記述する者の主体(先験的自我)を排除したところに成り立っているわけで、主体自体を論じることはできないはずなのですね。

最近木田元氏の書物を読んでおりますが、本質存在と事実存在、あるいは、形相と質料という切り口もこの問題の解につながりそうです。

ソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシャの三代哲人が西洋思想の根底部分を作り出したと木田氏は主張します。そして、この時点で存在が「本質存在」と「事実存在」に分化したと説きます。この主張自体は、多くの哲学者に共通するものでしょう。

存在に対するこの二つの見方は、今日の著作権法制の中にも見出すことができます。つまり、書籍などの著作物は、「有体物」すなわち物体としての書籍という面と、「無体物」すなわちその中に表現されている作品という面の二面性を持つのですね。

そして、著作権などの知的所有権は、無体物としての作品に関わる権利を保護する法律であり、有体物としての書物自体は、物品に対する一般的な所有権として保護されることとなります。

この有体物としての書籍が「事実存在」であり、無体物としての作品内容が「本質存在」ということになります。ギリシャの地で一般的にみられる彫刻であれば、これを構成している大理石が「事実存在」であり、そこに表現されているアポロンなり球形が「本質存在」ということになります。

ギリシャの哲学者、特にプラトンは、本質存在(無体物)の部分を「イデア」と呼び、特に重視します。そして、事実存在(有体物)は時間が経過すれば失われるのに対して、本質存在(無体物)は無限の寿命を持つと主張します。

確かに、書籍はいずれ失われますけど、そこに描かれた物語は、いくらでもコピーが残せるわけで、事実上、無限の寿命をもっております。

先験的自我も、「私の身体」という有体物に固定されてはいるものの、それ自体は無体物であるということが言えるでしょう。ただし、現在の技術では、この無体物部分を取り出してコピーしたり保存したりすることはできませんので、無限の寿命は得られません。とはいえ、この制限は、技術が進歩すればなくなるかもしれないと指摘しておきましょう。

トマスアクイナスは、アリストテレスの思想を受け入れてキリスト教の標準理論としたのですが、神は本質存在であるといたします。本質存在としての神の存在のあり方に関しては、さまざまな主張があるのですが、人の身体という物体に人の精神の存在を認めるように、自然界なり宇宙なりという物理的実体上に神の存在を認めることは、さほど無理がある主張でもないでしょう。

問題は、その神の存在のあり方が一通りにはなっていないことで、キリスト教で統一された西欧社会のみを前提とするなら、この宇宙に描かれた物語は一通りにしか解釈できないのですが、イスラムやアジアの様々な思想が無視できない今日には、これは通らない。リオタールの別の書「ポストモダンの条件」に描かれた「大きな物語の喪失」が生じてしまった、ということでしょう。

まあ、このあたりになりますと、それぞれの人が思い思いの物語を、この大宇宙の上に見出せばよいだけの話であるように、私には思われるのですが、、、

事実存在は、自然界に人と関わりなくそれ自体で実在すると考えられておりました。一方、本質存在は事実存在の上に人間精神が見出す概念的存在です。これは、今日の科学哲学者の間で主流となっております「素朴な自然主義」の考え方であり、ギリシャ時代からの伝統に即したものです。

これに対してカントは、人はもの自体を知りえないとし、人が自らの精神内(先験的自我の内)に構成した外界の姿を出発点とし、人が外界とみなしている世界は、精神内に構成された外界の姿を想像上の外部世界に投射したものであると考えます。

今日では、ヒトの脳の機能に対する理解も進み、これを人工的に構成する試みも進んでおります。この観点に立てば、ヒトが外界と認識しているものは、自らの脳が、脳内に取り込まれた情報を用いて、脳内で構成した姿であることは自明です。

しかしながら、科学者や科学哲学者の理解がこの境地に及んでいない。人が認識している外界は、外界そのものである、と考えてしまう。このことが一つの問題であるように、私には思われます。

知性に対する研究は、現在急速に進行しており、このあたりが見直されるのは時間の問題であるのかもしれませんが、、、