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「現代人のための哲学」を読む

このブログ、相場のほかに、本も読んでいるのですが、最近のテーマが「哲学」。なぜこんなことになってしまったかといいますと、書棚の飾りにと購入いたしましたデカルトの「方法序説/省察」に、なぜかはまってしまったのが1年と1月前

まあ、その前から、ネギま!の哲学を追求したり、デリダの著作を読みふけってはいたのですが、デカルトである程度、哲学の世界がみえてまいりました。そこで、本年正月には哲学的まとめを試みたのですが、どうもしっくりいたしません。結局、今年一年は、暇をみては哲学書を読み漁る1年となってしまいました。

1. 読者の側に要求される批判精神

今回読みました渡邊二郎著「現代人のための哲学」もその一つ。まあ、現代人というからには、私の関心ごとにも、かなりの解答が得られるのでは、と期待したのですが、少々期待はずれです。

何が問題かといいますと、まず第一に、物理学への理解がほとんどありません。現代人のための哲学であれば、相対論と量子論の形而上学的意味に触れないわけにはいかないと思うのですね。ですから、哲学の一つの主要テーマであります、時間に関する考察も、中途半端なものに終わっています。

この本のもう一つの問題点は、古今東西の、多くの哲学者の論点を幅広く紹介しているのは良いのですが、単に紹介するにとどまっており、これらに対する著者の考え方との違いがほとんど見えてきません。いわば、批判精神というものがあまり見受けられないのですね。

もちろん、「本書は、2000年2月、財団法人放送大学教育振興会から刊行された」、と奥付にあることから推察されます、古今東西の哲学者の思想を幅広く知る、という目的で書かれた本であるなら、このような書き方も納得できるのですがね。

ということは、この手の本を読む場合、読者の側が批判精神を発揮して読まなければいけません。いわば、読者は、渡邊氏ではなく、渡邊氏の書物の中で紹介された古今東西の哲学者との対決をしなければならない、というわけです。

2. 心身問題

さて、この本、私の興味のあるところに、あまり、触れていないと書きましたが、一点、心身問題に関しては章を設けて扱っております。その、第5章、「脳と心」を中心に、ここではご紹介することといたしましょう。

まず渡邊氏は、近年の脳科学の進歩は著しいものの、すべてを知り尽くしたわけではない、と説きます。この点には誰も異論がないと、私も思いますが、問題は、その先にあるのは何か、という点なのですね。で、これに関する渡邊氏の本音は、以下のように語られます。この文章につきましては、後に議論することにいたしましょう。

以上の試み(脳科学)において解明されようとしている心とは、結局、対象化され、しかも物質的過程に置き換えられたかぎりでの心に過ぎない。しかし、心の本質は、いかにそれが物質的対象性に基礎を置くにはしても、果たして、そうしたところに尽きるのであろうか。むしろ、心の本質は、脳といったような物質的対象性に局限されるのではなく、そうした形ではけっして捉えられないところの、精神的主体性そのもののうちにあるのではないだろうか。

次に、「3.心の在処」と題しまして、いよいよ本題に話が進みます。まずでてくるのはベルグソンでして、心には脳以上のものがある、と説きます。

それにいたしましても、「脳と心との関係は、ちょうど、釘とそれに掛けられた衣服との関係に等しい。釘が抜ければ、衣服も落ち、釘が動けば、衣服も動き、釘が尖れば衣服にも穴があく。」とはすごい言葉ですね。ほとんど、ハルヒにおきます古泉君の言い出しそうな言葉ではあります。

そして、渡邊氏のこの部分での結論は、ベルグソン流の結論であり、次のように述べます。

心や精神の理解がまずあり、それを大脳における物質的地図の形に描き直すことが、実験的に試行されているのである。心や精神の先導性が、改めて、明確に再確認されるべきであろう。

3. 最近の心の哲学の動向

ついで、「5.最近の心の哲学の動向」と題しまして、主な考え方を紹介いたします。これは良くまとまっていますので、ここでもざっとご紹介いたしましょう。

行動主義心の内部を知ろうとするのではなく、外部に現れた行動を調べるべきとの立場。心の重要性が認識されるにしたがって放棄された。

心脳同一説と認知主義、連結主義(自然主義、唯物論):心の働きは脳の物質的な状態と同一であるとみなす立場。脳は情報処理システムであり、コンピュータと同様であると考えられた(認知主義)。欧米では支配的と。

機能主義:心脳同一説に類似しているが、脳がハードウエアであるのに対し、心はソフトウエアである、とみなす立場。機能には目的があるはずであり、何者が目的をもち、目的に合致した機能を作り出しているのかが問題とされた。

唯物論に対する批判的立場心の感受性質(クオリア)を感じており、自由意志をもって行動している。すなわち、我々は物理的機構には還元できないということを実感しており、上記二つの唯物論は人の行動指針とはなりえない、との強い批判が存在する。

というわけで、渡邊氏は唯物論に反対する立場です。しかし、唯物論が正しいことを認めつつ、ベルグソン流の心身二元論的立場も同時に取る、ということに対する説明はなされておらず、「心は機械である脳の物理現象であるが、それは実感に反するし、行動指針ともならない」旨の主張がなされているだけです。

4. 私なりのまとめ

結局のところ、ここはいくつかの論点を補う必要があるでしょう。で、それを私流に行ってみることといたします。

まず第一に、人間の心、ないし精神的活動は、全てが脳における物理現象であり、情報処理に帰着することができる、ということは、現段階で否定できません。

第二に、人が世界を認識する方法は、一通りに限定する必要はない、ということも認められてしかるべきでしょう。これは、例えば、コミック本を考えてみれば理解できるでしょう。つまり、我々は、コミック本が、物理的には、セルロースにインクが付着したものに過ぎないことを理解しているのですが、それにもかかわらず、我々はコミック本の中に豊かな物語を読み取ることができるのですね。

人がコミック本の中に物語を見出したからといって、コミック本の中に、物語という物理的実体があるわけではありません。物語は、それを読む人の精神の中に再構成されるものであって、セルロースの上のインクのパターンという、全くの物理的実体が、そのきっかけを与えるだけの話であるわけです。

第三に、我々は知りえないことを語り得ない、ということ。つまりは、人の行動が脳における情報処理の結果であるとしても、我々が日常出合う人たちの脳の中の状態を知ることはできず、物理的に還元された知識は、日常生活を送る上で何の役にも立たない、ということです。

すなわち、第一の自然科学的理解を受け入れたところで、人の自由な精神を否定する必要は全くなく、時と場合に応じて、世界に対する認識のあり方を切り替えることに何の問題もない、というわけなのですね。

次に、我々がそもそも何を議論しているのか、その土台は何であるのか、ということに考えをめぐらさなければなりません。

哲学は学問の一つであり、人類が共有する知識の総体の一部を構成するのですが、この知識といいますのは、概念を用いた世界の記述であり、精神的機能によってのみ生み出されるものです。その精神的機能は、つまるところ、人の脳の機能に依存しており、しかも、知識を生み出しているのは客体としての人体ではなく、主体としての人間、思惟する我、であるわけです。

主体としての人は、人体を客体として理解することも可能なのですが、自らが思考し、決断をするときには、自らの脳の内部で何が生じているか、といった知識は全く役に立ちません。そういったとき役に立つのは、周囲の人々とのコミュニケーションを続ける中で得た知識、自らの主観の内部にある客観のコピーがものをいう、というわけです。

さて、ここでは同書の心身問題を扱った章のみをご紹介いたしましたが、この本は神の問題まで幅広く扱っており、さまざまな哲学的問題に対する古今東西の哲人たちの考えを知る上ではお役立ちの一冊、といえるでしょう。