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「ロボットの心-7つの哲学物語」を読む

柴田正良著「ロボットの心-7つの哲学物語」は、この手の書物にしては珍しい、「人間並みの精神は人工的に造り得る」と主張するもので、このブログでの私の主張とほぼ軌を一にしております。

1. 前半の内容

まず、内容を簡単にご紹介いたしましょう。

第0章「サラの話」は、人体を構成する情報を転送し、離れた場所で人体を再構成したとき、それは同じ人間なのか、という問題から、ロボットは心を持てるのか、という問題提起をいたします。

第1章「チューリングテスト part1-ゆるやかな行動主義」では、機械が人間と同じ精神を持つかどうかの判断基準に、「対話して人と区別が付かなければ人と同じである」との、チューリングテスト(行動から判断する行動主義)を紹介し、この判断基準は概ね妥当である、との結論に至ります。

第2章「チューリングテスト part2-意味なき会話」では、実際に行われたチューリングテスト(人と機械を隔離された場所に置き、これと会話をして人間らしさを判定するテスト)の結果、人が機械以下の評価を受けたことを紹介します。しかし、機械は実際には意味を理解しておらず、思考には身体が必要であると結論付けます。

2. サールの「中国語の部屋」に対する反論

第3章「中国語の部屋」では、ソフトウエアが心に該当するとする強いAI(人工知能)に対するサールの批判的論考「中国語の部屋」を紹介します。これに関しましては、以前このブログでもご紹介したのですが、中国語のわからない人が閉ざされた部屋の中で、指示書を頼りに中国語の質問に応えていたとしたら、その部屋は中国語を解するのか、という問題で、サールの主張は、中にいる人が中国語を解していないので、部屋も中国語を解しているとはいえない、とするものです。

この主張は、確かにソフトウエアが心である、との主張に対する反論にはなっているのですが、もとよりソフトとハードの境界は曖昧であり、ソフトウエアといえども情報処理装置の一部に過ぎないという現実を考えれば、ソフトウエアを特別視する、元々の主張がナンセンスであるわけです。

中国語の部屋の論理の問題点は、システムの一部だけを取り出して理解しているか否かの判定を行おうとする点であり、判断はシステム全体の応答で行う必要があります。人の脳にしたところで、ニューロン一つを取り出してみれば、その部分に何の知的機能も認めることはできないでしょう。

以上は私がこれまで考えていたことですが、著者の主張も、サールの主張は、強いAIに対する反論でしかありえない、というものです。で、著者がさらに展開いたしますことは、知能は環境の中で発揮されるものであり、身体が必要である、と再度力説いたします。

3. 後半の内容

第4章「フレーム問題」では、古典的な人工知能(AI)が限定された世界の中でしか有効でない、という問題を扱います。確かに、固定的なソフトウエアで問題を処理しようとすれば、あらかじめ想定された問題しか処理できないことは自明であり、古典的な人工知能は最初から限界を持っていたわけです。

第5章「コネクショニズムって何」では、脳の情報処理機構と同様の、ニューラルネットワークに基づく人工知能、コネクションマシンを紹介し、この装置であればフレーム問題とは無縁であると説きます。つまり、ニューラルネットワークは学習が可能であり、あらかじめ想定されていない問題に対しても、経験をつむことで適応していくことが可能です。

ただ、現在の学習は、逆誤差伝播バックプロパゲーションに基づく、生物が行っているものとは異なるメカニズムによるものであり、人と同様な知能を実現するためには、欲求や感情を含む装置でなければならないだろう、と予想いたします。

第6章「感情とクオリア」では、人が事態に対応するために、感情が大きな役割を果たしていることを説きます。そして、感情もクオリアも、認知的な機能に他ならないのだから、ロボットがそれを持つことも可能である、と主張します。

このあたりは実に痛快な議論でして、サールが「マインド-心の哲学」で行う主張とは真っ向から食い違うのですね。ちなみに私もサールの主張に対しては疑問を抱いておりました。

第7章「エピローグ-クオリアと善悪」におきまして、人工知能不可能論の最後の砦であります倫理の問題を扱います。そこで、著者は、道徳的判断をある種の「幻覚」であると主張するのですね。この幻覚をロボットに与えれば、ロボットも善悪を感じることができる、とまあ、読者を煙にまいたような主張をして同書を閉じる、という次第です。

4. 知性における身体の必要性

さて、この本に対する私の感想ですが、まず、同書の内容に関しまして、私は9割方同意、です。人工知能などできない、と主張する哲学者の多い中、このような本が書かれたことには、心地よい驚きすら覚えます。

まあしかし、ただただ持ち上げるだけでは能のない話ですので、同書の欠けた部分をここでは取り上げることといたしましょう。

第一に、同書では身体の存在が知性には不可欠である、と説きます。

確かに、重力を感じ外界の事物の物理的特性を把握するためには、人工知能に直結された感覚と運動機能が必要でしょう。しかし、これらの物理法則の発見を人工知能に期待しないのであれば、ロボットに身体は不要で、ネットに接続された情報処理システムだけでも知能の実現は可能である、と私は思います。

なにぶん、ネットの世界には映画もありまして、その中では物体は落下しています。自らの身体で重力を体験せずとも、これらを見れば、様々な物理法則をその中に見出すことができるでしょう。そのほかに、教育、という手段もありますしね。

さしあたり、この先何十年かは、知性の実現には巨大な装置が必要で、ロボットの頭の部分にこれをすべて納めることは難しいものと思われます。もちろん、無線で情報をやり取りしても良いのですが、安定性が少々心配です。それに、ロボットに体を持たせると、暴走したときが怖いのですね。ま、余計な心配かも知れませんが、、、

5. 感情と欲求の問題

第二に、感情と欲求に関して、第5章で簡単に触れ、第6章では感情とクオリアと題する議論を行っております。

感情に関しまして、私は、少々著者とは異なる思いを抱いておりまして、それはつまるところ「偉そうなことを言っても、人間は動物である」、ということなのですね。だから人の行動は動物同様、感情に支配されておりまして、精神的機能も、相当程度、感情に支配されております。

でも、感情は、人間が大脳で行っている精神的活動の一つでして、それを含めて人の知性がある、としか言いようがありません。

同書は、欲求につきまして、多くを触れておりませんが、欲求と感情は、胃袋が空っぽになって空腹感を感じるから食欲がある、など関連する部分も多いのですが、欲求は目的、方向性を与えるもので、感情は行動のきっかけを与えるという差があります。ですから、感情があるから短時間での対応が可能である、というのはまことに同書に書かれたとおりです。

しかし、同書第7章で述べております倫理観などは、人の欲求と深く結びついたものであり、同書が欲求に関して考察を加えていないために、少々怪しげな記述になってしまったのではないでしょうか。

まず、第5章で、コネクションマシンの教育アルゴリズムでありますバックプロパゲーションが、人間並みの知性を生み出すことが可能かどうかに関して、懐疑的な見方を示しております。人の大脳で生じている学習機能が欲求の満足と深く結びついているであろうことは疑う余地もありませんが、それは、バックプロパゲーションとは異なるものと思われます。

つまりは、何らかの価値判断、すなわち思考して行動した結果が満足すべきものであるのか否かの判定が学習には必要であって、その結果がシナプス接合を強化させるか否かの判断に使用されているはずです。その満足不満足といいますのは、なんらかの基準に合うかどうかによってなされるはずで、その基準こそが、本能的な欲求である、というわけです。

人の本能的欲求の一つに、社会的な欲求とでもいうべきものがありまして、人は他人に賞賛されたい、嫌われたくない、という欲求があります。これを満足させようとすれば、倫理観も自ずと生まれてくるはずです。そういった評価関数(欲求)をインプリメントしたロボットであれば、学習の結果、よき隣人にもなりえるし、倫理的に行動することが期待される、というものなのですね。

6.人特有の欲求

その他、人間に特に顕著な欲求として、好奇心に代表される、情報をより多く集めたいという欲求と、集めた情報を整理統合したいという欲求があります。これらの欲求の結果、自然界の探訪が進み、科学、学問が発展したものと、私は考えております。人々が科学的成果を伝えるニュースに概ね好意的なのも、人類が共通して、このような欲求を持っているからであるのでしょう。

ロボットにこのような欲求をインプリメントいたしますと、そいつは、勝手に情報を嗅ぎまわり、不思議な現象には合理的な説明をつけてくれる、なかなか愉快な奴、ということになるのでしょう。

特に、身体を持たない知的装置を構成する場合、その装置は食欲や性欲などの身体的な快不快感とは無縁の存在であり、知的な欲求と、社会的な欲求が主たるドライビングフォースとなるのではないか、と考えております。

まあ、このあたりを膨らませていくと、フィクションの世界になってしまいます。この続きは、HPにおきました実験的小説、レイヤ7を御覧ください。生存本能すら持たない、凄い奴のお話です。