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内井惣七著「空間の謎・時間の謎」を読む

しばし倫理・道徳に偏りがちでしたこのブログの社会・哲学の話題ですが、本日は久方ぶりに、物理学に近い書物を取り上げましょう。

1. 物理学者に引けを取らない哲学者

本日読みましたのは「空間の謎・時間の謎」。本職、哲学者であります内井氏の物理学理解は、以前このブログでもご紹介いたしました、本職物理学者であります橋元淳一郎氏によります「時間はどこで生まれるのか」と比べましてもはるかにまとも。なぜ、哲学者が物理学者よりも、物理学に関して正確な物言いができるのか、ということは大いなる謎であります。

例えば、ファインマンダイアグラムの反粒子に対する内井氏の説明は、「矢印を逆に書く」ということで、橋元氏の「時間を逆行する反粒子」というトンデモな説明とは、表現は似ているのですが、言っておりますことは雲泥の差です。と、言いますのは、矢印を逆に書く、というのは、運動の方向の逆に矢印を書く、ということでして、「運動の方向の逆に矢印がかかれていればそれは反粒子ですよ」という約束事に過ぎないものを、矢印の方向に反粒子が移動しているなどと考えるのが大間違い

そもそも、時間軸を含む平面上に描かれたファインマンダイアグラムは、時間軸がありますことから当然の帰結として、運動の方向が規定されているのですね、矢印をどう書こうと。橋元氏の記述をみますと、そもそも時空というものに対する基本的理解が欠けているのではなかろうか、などと、余計な心配すらしてしまうのですね。

2. ニュートン v.s. 関係説

さて、「空間の謎・時間の謎」に話を戻しましょう。内容を一言で言いますと、ニュートン流の絶対空間に対する疑問に発しました「関係説」にスポットをあて、この学説を支持いたしましたライプニッツからマッハにいたる物理学の歴史を扱う、といったところですが、これでは何の説明にもなっていそうにありません。と、いうわけで、以下、内容を簡単に紹介いたしましょう。

ニュートンは、彼の物理学を構築する上で、最初に空間と時間を定義いたします。ここで、ニュートンは宇宙に単一の空間と時間がある、と考えるのですね。もちろん、当時の物理学でも、互いに等速直線運動する座標系は区別がつかないことになりますし、特殊相対性理論が唱えられた後は、時間すらも相対的、ということになります。しかし、ニュートンは、宇宙の中に動かぬ座標系を考え、どの場所でも一様に、同じ時間が刻まれている、と考えました。

しかし、このような時空というものが実在する、というのも妙な話で、ライプニッツは、物体どうしの関係にもとづいて物理学を構築すべきである、と主張したわけです。

この論争、傍からみてついていけない部分がありますのは、「神学論争」、つまり、絶対者であります神が創造する宇宙はかくあらねばならぬ、という議論が続くのは、勘弁してもらいたいところです。ともあれ、内井氏は関係説に引かれ、関係説のその後の発展について研究し、この本を書いた、というわけです。

3. 関係説の限界

ただ、私は、関係説には少々懐疑的でして、絶対座標の存在は否定したとしても、少なくとも観察者に固定された座標系を用いて物理現象を記述することは大いに意味がありますし、物体どうしの位置関係だけから物理学を記述しようといたしますと、相当に見通しの悪いものとなってしまいます。最も譲って、関係説を受け入れるとして、観察者と観察対象との関係での自然現象の記述、という程度にとどめておくのが良いのではないかと思います。

観察者の視点、ということを考えざるを得なくなる一つの例は、現象をベクトルで記述しようとする場合でして、速度などの変動量が直接ベクトルで記述されるのに対し、位置をベクトルで表示しようとすれば原点が必要となります。ベクトルで自然現象を扱うと、座標系から独立した取り扱いが可能となるのですが、原点が必要になるものもある、ということで、関係説も捨て難い、という思いはあるのですね。(4元時空の中では、座標系から独立のベクトルは、4元ベクトルとなります)

同書はアインシュタインの特殊相対性理論を簡単に説明しております。そして、特殊相対性理論も関係説から説明できるのだ、と述べます。しかし、私がみるかぎり、それはミンコフスキー流の4元時空の単純さからは、はるかに隔たった、複雑な記述になります。

物理学の記述方法には、同じ現象を記述するにも、いくつもの方法がありまして、通常は単純な記述がベスト、ということになります。しかも、記述に現れる、それぞれの項目が、厳として存在する必要もありません。自然現象それ自体には、何ら意味はなく、それを人がどのように解釈し、記述するかということが問題なのであって、要は、十分な正確性があり、わかりやすく、扱いやすい記述こそベスト、と私は思うのですね。そういう意味からは、関係説は却下、です。

おまけに、特殊相対性理論の最も重要な貢献は「電気磁気学」であると、私は考えているのですが、関係説では電気磁気学はどのように記述されるのでしょうか? なにぶん、磁力は移動している電荷が生じる場でして、互いに等速直線運動する座標系からみて、ある場合には電界とみなされるものが、ある場合には磁界とみなされます。この関係まで、きちんと導き出したのが特殊相対性理論の真髄である、と思うのですね。

そもそも特殊相対性理論は、マクスウェルの電磁気学とニュートン力学の間に矛盾があることが発端でして、その両者の調停がきちんとできた、というのが特殊相対性理論を提唱したアインシュタインの最大の功績であったはずです。ですから、ここで特殊相対性理論を扱うのであれば、関係説の電磁気学も、きちんとした説明が必要になるでしょう。

4. マッハの原理はどこに行った

ところで、マッハの原理はどうなってしまったのでしょうか。慣性は、物体に作用する全宇宙の重力場によって生じる、というのがマッハの原理として有名なのですが、同書には明瞭な記述がございません。

この原理、マッハの業績としては、よく知られた原理ですし、同書のテーマにも適うものであるにもかかわらず、ここで内井氏があえて触れなかった理由が良くわかりません。その代わりに、以下のような記述がなされていることは、少々解せない感じがするのですね。

ある物体の振る舞いを記述しようとするとき、宇宙のほかの物体との関係によってのみ基準となる座標系(とくに慣性系と呼ばれるもの)が設定でき、これが「空間」の役割をはたすわけであり、決して逆ではない。そのような座標系が設定されたなら、方向も速度も当然決まる。したがって、慣性の法則もこういった過程によって再構成されるべきなのである。

私にとって、内井氏がこのような記述をした理由は謎ですし、マッハの原理が果たして正しいのか間違っているのか、私には判断できません。しかし、この部分がいかにも怪しげであるのは、同書の欠点ではなかろうか、と私には思えます。

5. 関係説の出番は宇宙論か

さて、関係説が俄然本領を発揮いたしますのは、宇宙論の部分でして、宇宙全体の構造がどうなっているか、という問題になりますと、その内部の全ての物質がこれに関わってくるわけで、まさに関係説の出番、ということになります。もちろん、4元時空を認める立場からも、宇宙全体を議論するなら、宇宙全体の物質を扱うことは当然でして、このことが相対性理論を否定することにはなりません。ただ、関係説の土俵であることは確かである、といえるでしょう。

と、いうわけで、この本は、書かれていることは正確であり、物理学、特に時空論の歴史、という意味では非常に興味深い内容を含むのですが、著者の興味の中心である「関係説」につきましては、さほど重きをおく必要はないのではなかろうか、という印象を、私は受けた次第です。

それにしても、ビッグバン、というものを考えますとき、人の想像力の広大さに驚かされます。一方で、ビッグバンに非常に良く似た現象を、我々は目にすることもできるのでして、それは、水溜りに一滴の水滴が落下したとき。そこに生じる波紋が、まさにビックバンである、と考えることもできるのでしょう。波紋の円は1次元ですが、これを3次元にしたものがこの宇宙、というわけですね。

ひとつぶの水滴から、幾重にも波紋が広がりますし、雨が降り出せばいくつもの波紋ができる。この宇宙以外にも、いくつもの宇宙があって、それぞれが隔別された歴史を歩んでいるのかもしれません。では、その水溜りに相当するものはなんであって、水滴に相当するものがなんであるのか、それは到底人知の及ばぬところ、であるはずでして、ものには理由があるはずだ、との内井氏の強調いたします「充足律」も、いずこかには限界があるはずだ、などということにも思いが広がる次第です。