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竹田青嗣「現象学入門」を読む

以前のこのブログで、竹田青嗣著「現象学は〈思考の原理〉である」を読みましたが、本日は同じ著者の少し古い本、「現象学入門」を読むことといたしましょう。

著者の竹田氏は、西研氏とともに、フッサール現象学を支持する哲学者として知られた方で、もちろんこの本も、フッサールの書物に基づいて現象学を紹介いたします。

この本の章立ては、現象学が生まれるきっかけとなりました「主客一致問題」を紹介いたします第1章「現象学の基本問題」に続き、第2章「現象学的『還元』について」と第3章「現象学の方法」で、フッサールのアプローチ、すなわち現象学の手法の中心ともいえr『還元』について説明いたします。第4章「現象学の展開」では、物理学の発達によって人の感覚から離れてしまった自然観の問題を取り上げ、生活世界の重要性を述べます。最後に、第5章「現象学の探求」といたしまして、巷に流布しております現象学に対するさまざまな誤解を解説し、今後の方向を著者なりに探って書物を閉じます。

第1章「現象学の基本問題」の中心課題「主客一致問題」は、主観と客観が「一致」するということはありえるのか、という古くからの問題について議論いたします。この部分を引用すると、次のようになります。

もし主観と客観が「一致」しないならば人間はものごとの「本当」や価値について何一つ確実なことを言えない、ということになるし、さりとて主観と客観が一致すると言えば、一切が定められているという「決定論」や「摂理」の考えを避けられないことになるのだ。

もちろん私たちの直感から言って、この二つの考えはともにおかしい。しかしここが哲学のやっかいなところだが、論理をたどるかぎり人間はそういう結論を避けられなくなるのである。

ここまできて、私たちは<主観/客観>の難問の正体をつかみかけている。つまりそれは、単に認識装置の「完璧」差をいったい何が保証するのか、という問題ではなく、つぎのような事態であることがわかるだろう。

すなわち、<主観/客観>という前提から出発するかぎり、わたしたちは、論理的には必ず極端な「決定論」か、それとも極端な「相対論」、「懐疑主義」、「不可知論」かのどちらかにいきつくことになる。ではどう考えればいいのだろうか。

そして、「客観などない」、「カオス(混沌)とその解釈があるにすぎない」とするニーチェの考え方を紹介し、それも極端すぎるといたします。まあ、わたしに言わせていただけば、ニーチェの考えでも、この部分は、非常に当を得たものであると考えております。

第2章「現象学的『還元』について」では、デカルトの懐疑論、すなわち、「我おもう故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」から「神の存在証明」に至る道筋を紹介し、コギトは受け入れられるものの、神の存在証明は受け入れ難く、神という「客観の保証人」を持ち出したことは、デカルトが<主観/客観>図式にとらわれているためであるとして、フッサールのアプローチについて紹介します。

そのフッサールのアプローチは、「正しさを外側からは検証できない、という前提から、あえて“独我論的主観”の立場から始める」ということ、そして、「“独我論的主観”の内側だけで『疑えなさ』(=不可疑性)が生じる根拠を求める」という道、すなわち「現象学的還元」です。ここで、フッサールが重視いたしますのは、主観の思い通りにはならない「知覚」でして、知覚されたものの中に人は本質を見出す、というわけです。

第3章「現象学の方法」では、このフッサールのアプローチがさらに詳しく紹介されます。

第4章「現象学の展開」では、ガリレイ以降の物理学の進歩により、自然的な客観が生活世界と乖離していること、生活世界には「間主観性」すなわち、他者と共有された主観が重要であることを指摘いたします。

第5章「現象学の探求」では、「カメラモデル」による廣松渉の現象学理解や、「即自」と「対自」を対立させるサルトル流の「現象学」、そして身体にこだわるメルロー・ポンティ、あるいは、存在論を深めんとしたハイデガーが紹介されます。そして、人の知覚はカメラのように外界を忠実に映し出すものではなく、また、即自と対自の対立では主客の対立と同じであるとして、廣松氏とサルトルの解釈を退けます。

竹田氏は、ハイデガー流の現象学解釈の正当性を認め、ポンティ流展開に疑問を挟む一方で、身体性(エロス)に注目する、どちらかといえばポンティ流のアプローチを重視したい旨を記して同書を終えます。

さて、同書に対する私の考えですが、私自身、現象学を高く評価しておりまして、同書もその良い解説書であると思います。ただ、哲学書全般に対して常々私が抱いております不満は、同書でもやはり感じます。

この不満といいますのは、哲学書と物理学書を比較すれば一目瞭然でして、およそ物理学を解説した書物に、ニュートンが力学原理を記しました重要な書物であるプリンキピアを解説する書物などまずなく、普通は、ニュートンやその他の物理学者が作り上げた物理学そのものについて、簡潔に解説するのが普通です。

これに対し、哲学書は、高い業績を上げた哲学者の記述を追う、というアプローチが一般的であり、言い回しの解説が多いという特徴があります。これでは、哲学のレベルは、過去の哲学者が到達したレベルにとどまり、今日の「哲学」なり「形而上学」なりの到達した水準を記述するものである、とはとてもいえないのですね。

同書も同じ轍を踏んでおりまして、同書を読んだだけでは、フッサールのレベルにとどまってしまう、という問題があります。もちろん、フッサールは充分な高みに到達していた、ということは事実なのでしょうが、フッサールが活躍した時代から、既に数十年のときを過ぎ、思想界も、自然科学の世界も、社会そのものも大きく変化しておりまして、その表現にも、あるいは思想自体にも何らかの変化があっても良さそうなものだと思うのですね。

第二に、フッサールの最大の功績は、以前は人間の存在と独立に存在すると考えられていた「客観」を、他者と共有された主観であります「間主観性」に置き換えたことである、と私は理解しているのですが、この部分の記述が、同書では曖昧となっております。

フッサールが到達したこのような考え方は、実は古くからの東洋的なものの見方なのではないか、と私は考えております。すなわち、「主の観方」であります「主観」に対し、「客の観方」であります「客観」を対比することは、「対象(オブジェクト)」と「客観(オブジェクト)」が同じ言葉で語られる西洋的なものの見方とは異なり、フッサールが到達した、「間主観性の上にある客観」に極めて近い概念であると考えている次第です。

「客の観方」であります「客観」とは、誰の目にもそう見える、という普遍的な世界観としての客観でして、誰もが同じ外界に属しており、人の知覚の対象となります外界の事物が、誰の目にも同じように見える、という事実から、知覚の対象もまた、客観的な世界たりうる、という点で、東西の「客観」概念は相通じております。

東洋的な客観概念が、「対象」に近い西洋的な客観概念に比べてすぐれている点といたしまして、人は外界の事物を認識するとき、外界の事物そのものを見ているのではなく、その人の持っております知識体系から得られます、さまざまな概念にあてはめて見ている、という点があげられます。

人が個々に持っている知識体系は、その成長の過程を通じて他者との交流によって、あるいは教育によって獲得したものであり、その多くが「客観的知識体系」と考えているものです。

つまり、東洋的な「客観」概念は、みずからと他者が共にその内部で生きている「外界」の事物を、他者と共有しているとみずからが確信している知識体系にあてはめて得られた概念で記述したもの、といえるわけで、なるほどこれは、フッサールの客観概念と同一か、もしかすると一歩先を行くものではなかろうか、と私は思う次第です。

竹田氏の現象学では、「間主観性」を「生活世界」で主に扱っております。確かにフッサールの記述でも、「間主観性」の概念はあとのほうに出てくるのですが、それは説明の順序がそうであるに過ぎないのではないか、と私は考えております。

確かに、われわれが日常を生きております生活世界においては、皆が納得していればそれで良い、という場面がほとんどで、この世の真理などどうでも良い話です。そういう意味では生活世界はまさに「間主観性」の世界ではあるのですが、学問の世界でも事情はそうそう異なるわけでもなく、皆が真理と認めた学説が定説として通っているのですね。

フッサールの他者に対する扱いにつきましては、リオタールも「現象学」におきまして不満を述べております。後にポストモダニズムの旗頭となりますリオタールにとりましては、社会が思考を規定するといたします構造主義的な考え方も、人の主観を扱う際には考慮すべきと考えることは当然でして、少なくともこのような構造主義的考え方の正当性が認められております今日では、リオタールの不満も妥当なものと言わざるを得ません。

もちろんこれは今日だから言えることでして、フッサールが活躍した時代にはこのような概念は一般的ではなく、フッサールの書物にそのような記述を期待することはないものねだりではあるのですね。

そうであれば、今日現象学を論じるのであれば、このような部分も補う必要がある、と思う次第です。