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夢見るモナド。シュヴェーグラー「西洋哲学史」を読む

以前のこのブログで似たような題名の本を読んだのですが、今回読みます「西洋哲学史(下巻)改版」は1848年に書かれた、いわば古典です。

1848年ですから、残念ながらフッサールはまだ生まれてすらおらず、同書には、ヘーゲルまでしか書かれておりません。しかし、その内容は、単にいにしえの哲学者の思想をずらずらと連ねるのではなく、個々の思想の問題点と、それが後世の思想家にいかに引き継がれ、いかに乗り越えられたか、という点にまで言及されており、哲学思想の発展の跡をたどることができる良書、ということができるでしょう。

今回読みましたのは西洋哲学史(下)でして、デカルトからヘーゲルまでの西洋哲学の変遷を述べております。早速その内容をご紹介いたしましょう。

まず、デカルトです。デカルトは、まったく新しい哲学を始めた人物として、近代哲学の祖とされます。

彼は、全てを疑った後に、疑う自分自身の存在を否定できないものとして措定し、次いで自らの精神が明晰判明に真実と認識するものを真実と認め、さらには神の存在証明へと進みます。また、思考と実体という二つの実体を互いに異なるものとして考え、ここから人の松果体に精神が住むという、心身二元論へと論が進みます。

シュヴェーグラーは、デカルトの哲学の欠点が次の3点にあるとします。

まず第一に、せっかく全てのものを疑ったにもかかわらず、自らが真実と認識するものを真実と認めてしまっていること、第二に思考と存在を切り離していること、第三に、思考と存在を媒介するものとしての神は、まさにデウス・エクス・マキナである、というわけです。

デカルトの懐疑論は、スピノザに引き継がれ、世界に存在する実体はただ一つであり、それこそが神であるとする「汎神論」に至ります。そして、神の属性として、思考や物体を考えます。

シュヴェーグラーは、スピノザのこの考え方も、デカルトの二元論からは脱却していないと批判いたします。そして、この二元論のいずれに立つか、という違いから、その後の哲学思想が「観念論」と「実在論」の二つの潮流に分かれた、と述べます。

実在論の流れは、ホッブスロックらの「経験論」から、フランス人コンディヤックの「感覚論」を経て、唯物論に基礎をおくフランス啓蒙哲学へと繋がってゆきます。

一方観念論は、まず、ライプニッツに引き継がれ「モナド論」として結実します。このモナド、わかり難い概念ですが、シュヴェーグラーの本を読むかぎり、魂、に相当する概念でして、人間のような高級なモナドは常時活動しているのに対し、動物のモナドは夢見るモナドである、といたします。個人的には少々ついてゆけない説ですが、「夢見るモナド」、なんか良い響きですね。猫などを見ておりますと、まさに夢見るモナドなどという言葉がぴったりするような感じがいたします。

観念論は、バークレーヴォルフを経て、観念論に礎を置くドイツ啓蒙思想として発展いたします。しかしこの思想は、フランス啓蒙思想が極端な唯物論に走ったのと対照的に、ドイツ啓蒙思想は極端な観念論へと走り、いずれも皮相的な哲学思想へと落ち込んでいきました。

この二つの流れを統合し一大哲学思想へと発展させたのがカントです。この本は、カントに非常に大きなスペースを割いてその思想を詳しく説明しているのですが、ここでこの複雑な思想をご紹介することは少々無理があります。

カントによる人間の認識の理解は、このブログで私の主張に極めて近く、同書によりますとつぎのようになります。

一切の認識は、認識する主観と外界という二つの要因の産物である。……にもかかわらず、われわれは物をあるがままに認識するのではない。第一に、それはわれわれの悟性の形式であるカテゴリーのためである。すなわち、われわれは認識の材料としての与えられた多様に、認識の形式であるわれわれ自身の概念をつけ加えるから、これによって客観にはあきらかに変化が生ずる。客観はあるがままに思考されるのでなく、われわれがそれを把握するように思考されるにすぎない。

こうして、カントのの認識論は次の3点に概括される、といたします。

(1) われわれは現象を認識するにすぎず、物自体を認識するのではない。

(2) にもかかわらず経験のみがわれわれの認識の範囲であって、無制約的なものにかんする学は存在しない。

(3) それでもなお人間の認識が経験という自分に課せられた限界をふみ超えようとするならば、すなわち超越的となろうとするならば、それはこの上もなく大きな矛盾に巻きこまれる。

これは、私がこのブログに書きました自然主義的態度に対する制約と、知り得ないことは語りえないという原則によく対応しているように思われます。

カントは認識論以外にも多くの仕事をしておりますが、ここではその他につきましては省略いたします。カントの思想上の問題点とこれを克服する動きを、シュヴェーグラーは次のように記述しております。

まず、カントは独断論を批判することで、「神、自由、不死」と言う三つの理念を理論的には証明できないと言う結論に至りました。しかし、実践上の理由からこれを再び取り戻しているのですが、その理論的確実性はあいまいです。これにたいして、後継者ヤコービは「信仰哲学」を打ち立てた、とのことです。

第二に、カントの思想はなお二元論であるという問題があります。後継者フィヒテは「存在するものは全て自我である」として主観的観念論を唱え、これがシェリングの客観的観念論、ヘーゲルの絶対的観念論へと発展していきます。

カントの哲学は思想界に大きな影響を与えたのですが、私の目から見ますと、その後を引き継いだ思想は、少々退歩しているような印象を受けます。二元論を主観なり客観なり絶対者なりに帰結したところで、何一つ前進していないように、私には思われます。

最後に出てまいりますヘーゲルも、哲学界における巨人ではあるのですが、私の感覚では、あまり好きになれません。といいますか、このような絶対的概念を用いたアプローチには、私は最初から否定的なのですね。同書はヘーゲルで終わっているのですが、これはこの本が書かれた時期が1848年であるからいたし方ありません。別にヘーゲルが人類の哲学がたどり着いた到達点である、というわけでもありますまい。

私の理想を申しますと、ヨーロッパ哲学の歩みは、アリストテレスがあり、デカルトがあり、カントがあり、そしてフッサールが登場する、という流れをメインストリームとみなすのが良いのではないでしょうか。そういう流れからすれば、観念論と唯物論の対立も、ヘーゲル等の絶対的観念論も、人類の思想の発展からは傍流、脇道のように思われるのですね。

さて、カントの二元論を克服する道は、外界と観念を異なる論理空間に属する存在として扱うことではないかと思います。

人が外界の事物について議論するとき、それは、人の主観の中に形成された外界に対応する概念世界での議論です。だから全ては主観の中の議論ではあるのですが、人が主観の中に外界(自然界、物理学的世界)という論理空間を設定するとき、その内部では主観は捨象され、外界にかんする議論が行われる、というわけです。

もちろん、外界には人体も含まれ、脳の働きも自然科学の扱う対象となりえるのですが、それはあくまで客体としての精神機能が議論されるのですね。

またここで「主観」と言いますのは、フッサール流の「間主観性」すなわち主観の内なる客観を含みます。また人の精神機能はその成長過程において社会的影響の元に構成されており、かつ、人の精神活動も社会的であるということにも注意しなければいけません。

すなわち、社会の精神的機能の一部として人の精神活動を捉えるべきであるというのが、本ブログにおきまして私が繰り返し主張しております認識論の基本なのですが、このあたりにつきましては、書物の紹介からは大きく外れますので、稿を改めて議論したいと考えております。