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廣松渉の「科学の危機と認識論」を読む

知り得ないことは語り得ない」という原理を物理学の基本原理とすべく、このところいろいろと調べまくっておりますが、本日は、廣松渉氏の「科学の危機と認識論」を読むことといたしましょう。

廣松渉といえば日本哲学界の巨匠として知られている大先生なのですが、この方が科学哲学の講座を担当されていたことは、本書の序で、私ははじめて知りました。この方、東大教養学部教授を長く勤められた方ですから、駒場の東大生協での購入は、こちらもご当地本、ということになります。

同書は、1977年第1刷発行となっておりますが、元は紀伊国屋新書の一冊として昭和48年(1973年)に出版された非常に古い書物です。ただ、一昨日のブログでも述べたとおり、この分野での最近の進歩はさほど急速ともいえず、同書の内容は今日にも通ずるとの印象を受けました。

同書の内容は、対話形式の、非常にとっつきやすい記述となっておりますが、物理学に対する記述の深さはさほど深いとはいえません。もちろん廣松氏のポイントは、これを認識論的に議論するところにありまして、この部分に同書の特徴がある、といえるのでしょう。

ただ、肝心の物理学の部分の把握が、少々通俗的な理解に終始しておりますことは、これに基づく認識論的記述も、少々、心もとないものとなってしまいます。

とはいえ最後の部分は迫力満点。以下、面白そうなところをかいつまんで引用いたしましょう。

科学というものは客観的実在の定在と相在、なかんずく、客観的事実の法則を研究するものだと考えられているだろう? その場合の客観的事実というものは、もちろん形而上学的な別世界ではないけれども、日常的に見聞きするがままの世界現相とは一応区別されている。
……

人間の認識では必ず一定のパースペクティヴが構図を画するし、精密測定といっても誤差を免れない。現実にはそうなんだが、こういう現実体から“主観的”な混入物や偏差を除去していけるという了解の上に立って、そこに抽離される純粋な対象的事実、これが客観的実在性だということになるのだろうね。

比喩的にいえば、それは神様の目に映ずるがままの世界とでもいった了解の構えになってはいないだろうか? つまり、客観的実在の世界とは、いうなれば“神様の目に映ずるがままの世界”というわけだ。
……

神的な視座ともいうべき、近代科学が暗黙の視座として立てているところのものは、じっさいには私念された共同主観的な視座にほかならないというわけだな?
……
それに「物自体」をどう処理するかという問題も絡むだろうな。「実在する」という場合、個々人の感覚では認識論的根拠にはならない……。錯覚や幻覚ということもあり、本人には区別がつかんのだから。そこで、神の眼からみて現に在るということが「実在する」ということだと言ってみても、神の眼からみるというのは結局のところ共同主観的な見地ということが内実になるわけで、ここでもまた共同主観性の存立構造という問題が鍵になる、ということか。

科学者は神の視座で対象を眺めるのだが、それは共同主観性(間主観性)的見地からの把握である、というのですね。ただ、神の視座間主観的視座とは、少々異なるはずであり、この部分での掘り下げが必要であったのではないか、と思います。

ともあれ、これほどの方がこの問題を分析されていた、というのは、少々心強い話である、と感じた次第です。