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実在論と科学的実在論について

西脇与作著「科学の哲学」を引き続き読んでおります。

先日のこのブログでは、同書の記述より、「量子論は反実在論」などということをご紹介したのですが、ここでいう「実在論」とは何か、ということになりますと、同書にははっきりとした定義がなされておりません。

そこで本日は、「実在論」をめぐって少々考えてみることといたしましょう。

まず、Wikipediaによりますと「実在(じつざい、英:reality)とは、認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの」と定義されております。

ここで、「客観的」という用語を使うことには、少々抵抗がありまして、このままの定義ですと、主客一致論争の結果から、主観は永遠に実在を理解し得ない、という結論になってしまいそうです。

本ブログでは、「客観」を、フッサールの提唱いたします「間主観性の上に構築されたものとしての客観」、わかりやすく言えば「共有された主観」と考えることといたします。

そうなりますと、「客観」という言葉を「認識主体から独立」という言葉と同時に使用することはできませんので、実在の定義から「客観」という言葉を外し、「実在」の定義を、単に、「人間とは独立に存在するもの」とすることといたします。

科学的実在論には、以前のこのブログでもご紹介いたしました、戸田山和久著「科学哲学の冒険」に判り易い定義がなされておりまして、Wikipediaによりますと、実在の定義に加えて、「それを人は正しく知ることができる」という要件が加わります。

ここでの「正しく」は、おそらく「一意に」という意味であって、量子論が提供いたします「確率的」解釈では不足であるが故に量子論は実在論とはいえない、ということでしょう。

これにつきましては、以前のブログでご紹介いたしましたようにポパーが異議を唱えておりまして、「(確率を与える)傾向性はモノ固有の性質である」として、確率的な解釈でも正しく知ったことになるのだ、と主張しております。

同じ記事でご紹介しましたように、量子力学に関しては、完全とはいえない、という異議をアインシュタインが述べております。これは、アインシュタインの考えております科学の前提、すなわち、「科学は人とは関係なく存在する事物に対する叙述である」を量子力学は満足していない、という主張です。

これに関しては、ポパーの解釈を受け入れるといたしましても、解決はされません。シュレディンガーのネコの実験において、コペンハーゲン学派の主張する解釈、「生きたネコと死んだ猫が重なり合った状態にある」という点は、到底アインシュタインの納得できるものではないのですね。

この、アインシュタインの量子力学に対する批判は、理解できるものであり、特にシュレディンガーの猫の実験に対する量子力学の説明は相当に無理があるように思われます。

しかしながら、今日、量子力学の成功は疑いようもなく、量子力学を否定するアインシュタインの主張は誤っていた、というしかありません。

ならばどこに誤りがあったのか、と省みるとき、アインシュタインの推論の前提であります、実在論が疑われてしかるべきではないか、と私は思うのですね。

一方で、人の主観とは独立な存在としての実在そのものを否定することにも無理があります。

なにぶん、実在の事物は私自身のあやふやな精神よりもよほど頼りになるものでして、だから、重要なスケジュールなどが入りますと、メモしておく。実在の手帳に記録を残しておくのですね。この記録は、私が約束を忘れてしまったとしても、手帳を開けば思い出す。手帳という物体と、そこに記された記録(インクの痕跡)は、人の主観とは独立に実在している、としかいいようがありません。

そうなりますと、どこが間違っていたか、ということが問題になります。この問題に対する私の解釈は、

1. 人と独立に実在するのは、人が特定の概念を見出す原因である、ということ
2. 概念は人の精神的働きが見出すものである、ということ
3. 人が知りえないことに対しては、人は概念を見出すことができない、ということ

の3点でして、それゆえに、人が観察しないことが前提となっておりますはこの中のネコの生死に関しては、人は語り得ない、という答えが正解、ということになります。

この3項目は、非常に理解し易いと思います。たとえば、手帳にメモする場合、人と独立に生じている現象は、セルロースの薄片にインクがこすり付けられた、ということであって、その内容は人が読むことによって始めて意味を持ちます。また、中に書いたことを完全に忘れた場合、手帳を開かないことが前提であるなら、その内容は知りえない、これは当然のことです。

また、「『概念Xを見出す原因が実在する』ことを『Xが実在する』という」という表現を許すといたしますと、このような考え方は従来の実在論とさほど変ったものではない、ということもできるでしょう。ただし、概念を見出す人間の存在は必須である、という点だけは忘れてはいけません。

一方、素朴な実在論には、「神の視座」という考え方がありまして、「人と無関係に特定の概念に結び付けられた事物が実在する」とする根強い確信があります。しかし、概念はあくまで人間精神が生み出すものであって、人と無関係に概念までもが確定する、とすることには無理があります。

このような考え方は、全知全能の神を前提といたしますと、ありえない状況ではありません。神は、人と同様の概念を持ってあらゆる事物を知っている、ということであるなら、人とは無関係に概念に結びついた事物が存在する、ということも言えるでしょう。

しかし、そうであったとしても、人はいかにして神の知識を知りえるか、という問題があり、これを知りえない以上、状況はなんら改善されてはいないのですね。

このようなモデルは、概念を扱う人間精神が、集団で類似している、ということ、つまりは、同様な知識体系を人々が保有している、ということを前提といたしますと、フッサールの、間主観性を礎といたします客観に結びつけることができます。

また、知りえない、という状態を物理状態に含める場合には、true, falseの論理値に加え、unknownという第三の論理状態を持つ三値論理で取り扱う必要が出てまいりまして、科学哲学の世界に、もう一つの修正を加える必要がありそうです。

まあしかし、これらもたいした変更でもなく、アインシュタインと量子論の手打ちが、この程度のことで済むなら、万々歳、といったところではなかろうか、と考えている次第です。