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リンドリー「量子力学の奇妙なところが…」を読む

このところ、量子力学の観測問題に絡んで科学哲学関係の書物を読む日が続いておりますが、本日はずばり観測問題を扱いました、デヴィッド・リンドリー著「量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ」を読むことにいたします。

1. ファインマン物理学と比べると

同書は、一般向けに書かれた本なのですが、相当に高度な内容を扱っており、かつそれを簡単に書こうとしたことから、かえって判り難い記述になっているようにも思われます。ひょっとすると、「ファインマン物理学V量子力学」のほうがわかりやすかったりするかもしれません。

ファインマンのこの本、シュテルン・ゲルラッハの実験につきましても正確に記述しておりますし、ブラ(<)とケット(>)を用いた波動関数の表現につきましても、非常にわかりやすく記述されています。こういった話は、わかる人が書いたものは判りやすく、なんとかかんとか理解したような人が書いた本ですとか、全くわからない人への説明を意図して書かれた本などは、非常にわかりにくい記述となってしまいます。

ただ、ファインマン、何故にか、観測問題からは遠ざかっており、EPRパラドックスもシュレディンガーの猫も出てまいりません。ただし、「哲学的意味」という一節を設け、不確実なことは書く必要がない、とあっさり切り捨てているのですね。

まあ、これはこれで一つの考え方である、とは思います。物理学が依って立つ、その基礎が一体なんであるのか、ということは置き去りにして、物理現象なり、法則なりを追う、ということは、物理学者として当然のことである、ともいえるでしょう。しかし、物理学が何ゆえに成り立つのか、という点は、やはり気になるのではなかろうか、などと余計なことを考えてしまうのですね。

2. EPRパラドックス

さて、ファインマンの本は、今回の対象ではありません。「量子力学の奇妙なところが……」のご紹介をすることといたしましょう。

同書は、EPRパラドックスから説明をいたします。リンドリー氏、右の手袋と左の手袋を、二人の人が分けて、どちらを自分が持っているか知らないままに別々に旅に出る、という形にこのお話を変形いたします。で、遠く離れたところで袋を開けると、自分が持っている手袋が右か左かわかる。その瞬間に、遠く離れたもう一人の人の持っている手袋も、それがどちらの手袋であるのかわかる、というわけですね。

で、スピンが異なる二つの光子を発生する反応を利用し、そのスピンを遠く離れたところで観測いたしますと、他方で観測されるスピンもわかる、というわけです。波動関数である間は、スピンがどちらであるかは不確定であり、観測により不確定な状態から確定状態に変化いたします。

で、この変化が、遠くはなれた点まで瞬時に伝わるのがおかしい、というのがEPRパラドックスなのですね。

3. 遅延選択実験と実在の現象

次にお話は、シュテルン・ゲルラッハのスピン測定に移ります。電子や原子などのスピンは波動関数で記述されるのですが、不思議なことにこれは二つの値しかとりえません。(ファインマンの本では正負のほかに0もとりえるとしておりますが。)これは、まあそういうものである、と理解すればそれだけの話なのですが、巨視的現象のアナロジーで理解しようといたしますと、不思議な現象である、としかいいようがありません。

そもそも、粒子が波動性をもつ、というところからして、巨視的現象と微視的現象は大いに異なっておりますので、このアナロジーは早めに捨て去ったほうがよいと思います。そして、現れた現象の理解に努めること、これが量子力学を理解するための最初の一歩であるような気がいたします。

同書89ページ「厳密であることの重要性」という節で、著者は遅延選択実験でおなじみのホイーラーの言葉を引用して次のように述べます。

原則をはっきりさせられるところまでやってきたようだ。観測するまではなにも実在ではないということである。あるいは、ニールス・ボーアの弟子のジョン・ホイーラーが好んだ言い方をすれば、『いかなる基本現象も、観測された現象になる前は実在の現象ではない』。

測定された、あるいは観測された量だけを扱うことができるという考え方は、強い命令であるようには見えないかもしれない。科学者はいつもそうしているのではないのか。実はそうではない。科学者はほとんどいつも、自分が測定しているものは奥にある不動の実在の一部であり、われわれが徐々にとらえられるようになる客観的な世界が存在するということを想定している。量子力学は、これにノーという。たとえば、光子は干渉実験で実際に両方の部分を通るのだと宣言することによって、波動関数にある種の物理的実在を負わせようとすると、遅延選択実験を理解するのが難しくなる。量子力学のコペンハーゲン解釈と呼ばれるようになったものを支える柱であるボーアの解釈は、見かけよりもずっと厳しい。それは、光子が干渉実験の一方の端から反対側の端へ行くときに何をしたかがわかると思ってはならないと、はっきりと禁じている。

英語版(Where Does The Weirdness Go?: Why Quantum Mechanics Is Strange, But Not As Strange As You Think?)は以下の通りです。

We seem to have reached the point where we can enunciate a principle: nothing is real until you measure it. Or, as Niels Bohr's protege John Wheeler liked to put it, "No elementary phenomenon is a real phenomenon until it is a measured phenomenon."

The idea that you can deal only in measured or observed quantities may not seem like a strong injunction. Isn't that what scientists do all the time? In fact, it's not. Scientists have almost deep and invariable reality, that there exists an objective world that we can, by degrees, apprehend. Quantum mechanics says no to this: if we try to impute some sort of physical reality to the wavefunction, for example by declaring that a photon really does travel down both parts of an interference experiment, then we have difficulties understanding the delayed choice experiment. Bohr's injunction, the central pillar of what has become known as the Copenhagen interpretation of quantum mechanics, is a good deal stricter than it may seem. It positively did as it went from one end of the interference experiment to the other.

なるほど、コペンハーゲン解釈は、ある意味、観念論に近い、ということもできます。またこの考え方は、私の実在論にも近い考え方である、とも言えそうです。これについては、いずれまたじっくり考えることといたしましょう。

4. 脱コヒーレンス

次にシュレディンガーの猫の実験が出てまいります。これは同書では、シュテルン・ゲルラッハの実験装置で乱数を発生させるように脚色しておりますが、ガイガーカウンタを使う、オリジナルの形がわかりやすいように思います。

同書の出色した点は、「脱コヒーレンス」という説明を加えているところでして、一般的な巨視的現象には量子論的効果は現れない、ということなのですね。もちろんそれが現れる確率はゼロではないのですが、量子論と同様、確率現象であります、熱力学の第二法則が破れるような、きわめて確率の低い事象としてのみ例外が現れる、というわけです。

さて、同書はなかなかに読みにくい、あまりお奨めできる書物とは言い難いのですが、EPRパラドックスが解説されている点と、脱コヒーレンスという概念が紹介されている点は、買い、であるかもしれません。これらにつきまして、以下、私の考えを簡単に述べておくことといたしましょう。

まず、EPRパラドックスですが、これは取り立ててパラドックスというほどのものでもないように思います。観測によりスピンの向きが決まれば、遠く離れた場所でのもう一方の粒子のスピンもわかるわけですが、その情報は測定した点にとどまるのですね。

それは確かに、遠くはなれた位置の状態を確定させているのですが、その情報が相手に伝わらない以上、相手の点ではスピンは未知でして、測定してはじめて状態は確定します。つまり、遠く離れた相手にとっては、スピンは、こちらが測定を行おうが行うまいが、そんなこととは無関係に量子力学の教えるところにしたがって事態は進行しております。

すなわち、それぞれの場所において、量子力学は成り立っており、光速を越えた情報の伝達も発生しておりません。、一方の測定の結果が他方の状態を決定しているということができるのは、全てを見通す神のごとき存在だけであるのですが、そのような存在を許してしまっては、情報伝達が光速以下に限られるという相対論の要請を最初から無視してしまっているのですね。

次に、脱コヒーレンスですが、残念ながら同書はこれに関して明確な結論を与えておりません。実は、同書の出版が1996年であり、2006年に出ました「別冊数理科学『量子の新世紀』」でも、シュレディンガーの猫の実験に対して明確な結論を与えていないことから、脱コヒーレンスは、いまだ物理学者に完全に支持された説とはなっていないように思われます。

しかしながら、私はこの考え方は、少なくとも結論部分では正しいものと考えております。

ド・ブロイは、運動している粒子は波動的性質を示すとし、その振動数をエネルギーとプランク定数の積として与えております。質量の大きな粒子は、振動数が非常に高く、したがって波長が短く、波動的性質が現れ難いのですね。

で、猫のような巨大な物体には、量子論的効果はまず現れません。これは、ふつうに見られる猫を観察しても明らかにわかることであって、それが箱の中に入って外からは見えないからといって、特殊な現象が生じていると考えるべき理由は何もないのですね。

5. バラエティー風シュレディンガーの猫の実験

まあ、これにつきましては、「バラエティー風『シュレディンガーのネコ』梗概」でご紹介しましたような実験を行えば一目瞭然。ネコの状態をテレビで中継し、一人物理学者のみがそれを見ない、という実験を行うのですね。

で、物理学者にとりましては、ネコは、生死が重なり合った状態にあるのですが、全国の視聴者にとりましては、ネコの状態は逐一知ることができます。で、そのとき思うことは、この物理学者、単に知らなかっただけなのではなかろうか、ということになるはずです。

まあ、蓋を開ければ生死がわかるものですから、生死がわからないのは、単に蓋を開けないからだけであって、この局面では、既に量子力学的な問題ではなく、単に観測しないからわからない、というだけの話である、というのが私の考えです。

とはいえ、これが「脱コヒーレンス」という形で、量子力学的にもきちんと説明ができるとすれば、それはそれで、大きな進歩であると思います。

6. 三つの世界論による説明

まあしかし、最近、私は猫の生死はどうでもよい、と考えるようになりました。なにぶん、「知り得ないことは語り得ない」が私の信条ですから、猫の生死についても「語り得ない」ということになりまして、これを議論いたしますことは自己矛盾となってしまいますからね。

この件に関しましては、量子力学は量子力学の世界で、きちんと尻を拭いといていただきたい、といったところでしょうか。

(以下は2017.1.15の追記) 最近纏めました「主観と客観:情報システムの中の世界」に従ってEPRパラドックスを説明すると、次のようになります。

まず、物理学者が対象としている世界は、人と無関係に実在している自然界「世界R」ではなく、物理学者による世界Rの認識結果であります世界R'である、というのが私の解釈です。世界R'とは、物理学者が世界Rから受けた情報をもとに、自らの主観世界(世界C)の中に構築した世界Rのモデルです。

世界R'は個々の物理学者が推論した世界Rの姿であり、物理学者の脳内に保持されております。だから、手元の光子を観測することで、遠く離れた位置にあってこれと量子相関している光子の状態が定まったところで、おかしなことは何一つありません。どちらも脳内にある情報ですから、遠く離れた位置にある光子間の情報伝達など必要ないのですね。

一方で、これらが世界Rを記述していると考えれば、これは大いなる謎ということになります。何分、世界Rにおいては、双方の光子は遠く離れているのですから。

シュレディンガーの猫もこれと同じ話で、箱の中を見ていない観測者の脳内に保持された世界R'においては、猫の状態は定まらず、これをあえて断定的に述べるとすれば、生死重なり合っているというしかありません。(わからない、というのが最も素直な物言いであるとは思いますが。)そして、世界Rにおいては、猫は生きているか死んでいるかのいずれかなのですが、これを観測しない以上、どうであるかなど語れるわけもありません。つまるところ、これを語る人が、おのれの認識に基づいて語るしかなく、世界R'における猫の状態は未定なのですから致し方ありません。

結局のところ、物理学者が相手にしているのは世界Rではなく世界R'であるということ。こう考えれば何の不思議もありません。