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鈴木大拙「東洋的な見方」を読む

本日は,がらりと趣を変えまして、鈴木大拙師の「新編東洋的な見方」を読むことにいたしましょう。

1. なぜ東洋思想か

なぜこんな本を読もうと思ったかといいますと、最近、量子力学に関連した書物をいろいろと読んでいたのですが、シュレディンガーにせよ、ボーアにせよ、量子力学を極めた巨匠達のある人々が、後に東洋思想に傾倒している、という事実があるからなのですね。

この根底にあります問題は、これらの人々が量子力学に対する探求を進めるにしたがって、思想の根底部分に疑問を感じるに至ったのではないか、と私は思います。これは、このブログでも何度か議論いたしましたが、「客観」というものに対する素朴な信頼が揺らいだ、ということであるのかもしれません。

「客観」とは、英語でいえばオブジェクト、つまりは対象でして、眼前の物体を客観的実在である、と考えるのが至極ふつうの考え方です。この場合、眼前の事物とは、りんごならりんごという概念をともなう実在と考えられています。この概念を含む実在が、確固とした客観である、と考えるのが素朴な実在論であり、多くの科学者はこれを前提として理論を構築しております。

こうなりますと、量子力学的実在とは何か、ということが問題となりまして、波動関数は実在するのか、それは単なる概念上の存在に過ぎないのか、という点が問題となります。

一方で、カントは外界の実在を人は知りえないとする不可知論を唱えました。人が知りえるのは、人の精神世界内に形成される表象のみであり、これから形成される観念こそが人の知りえるすべてである、と考えるのですね。

また、フッサールは、カントと同様の意味に、外界の実在を認めた上で、人々が抱く主観を他者とのあいだで共有した、間主観性の上に客観が形成されるといたします。間主観性上の客観は、対象という意味合いはなく、眼前の事物とは異なる、人の精神的機能の内部に形成されるものであるわけです。

このように考え、間主観性の上に科学を形成するものと考えますと、量子力学も古典論と何ら変わらない扱いが、少なくとも、哲学的にはできることになります。しかし、素朴な実在論にとどまる限り、物理学の理論は根無し草的状況にとどまることを免れません。

このような観点からの科学哲学の再構築につきましては、本ブログで私が試みんとしているのですが、カントにせよ、フッサールにせよ、それらの思想は相当に難解を極め、実在論を組みなおすことはそうそう簡単ではありません。一方、西洋の思想とは異なる東洋の思想、というものが古くから存在したのですね。

で、東洋思想は、統合的なものの見方を可能といたします。このような思想に触れたボーアやシュレディンガーが東洋思想に強く引かれたのではないかと考え、その東洋思想について知識を深める目的で同書を読んだ、というわけです。

2. 主客分離以前の思想

さて、内容のご紹介とまいりましょう。同書によりますと、東洋の思想というものは基本部分からして、西洋思想とは根本的に異なります。26ページからの部分を、ちょっと引用いたしましょう。

西洋は数が元になるから、まず主客の両観から始まって、次から次へと分化していく。……科学の発達から、技術の正確さ、巧緻さに至るまで、東洋よりは、ずっと進んでいる。それから組織を立てることが西洋の得意とするところである。したがって人間も機械の一部になり、組織の中に鎔けこんでゆく。本当の自由もなくなり、本来の創造力も減殺されがちである。これが西洋今日の悩みである。……

東洋式はこれと全面的に反対だ。一の数さえもまだ始まらない以前を見ようとする。主も客もない。われも汝もない。ローゴスもまだ面を出さぬ、「光あれ」のひと声もまだ発せられない、その当時の消息、いわゆる父母未発生以前の消息を端的に見てとらんとするのが東洋式の精髄である。

この部分、西洋のロゴス、つまりは論理的思考様式に対し、東洋は論理以前を探求する、というわけですね。では、論理以前とは何か、ということが次の問題となるのですが、なにぶん論理以前ですから、これを言葉で語ろうとすると、大きな困難に直面してしまいます。

3. 自由自在

鈴木師は自由について以下のように語ります。ここから、論理以前のありようの一端を知ることができます。

自由の本質とは何か。これをきわめて卑近な例でいえば、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に往すること、これを松や竹の自由というのである。これを必然性だといい、そうならなくてはならぬのだというのが、ふつうの人々および科学者などの考え方だろうが、これは、物の有限性、あるいはこれをいわゆる客観的などという観点から見て、そういうので、その物自体、すなわちその本姓なるものから観ると、その自由性で自主的にそうなるので、何も他から牽制を受けることはないのである。……

禅語に「大用現前(だいゆうげんぜん)、規則を存ぜず」という語がある。その通りで、規則とか法則とか理法とか原則とか何とか、その他のいろいろの名称があるが、いずれも、物自体に触れた言葉ではないのである。大用というのは、物自体がその自体のごとくに作用し行動する意味である。松が竹にならぬというのは、人間の判断で、松からいえば、いらぬお世話である。松は人間の規則や原理で生きているのではない。こういうのを自由というのである。

よく自由と放逸とを混同する。放逸とは自制ができぬので、自由自主とはその正反対になる。まったくの奴隷性である。近頃のビート・ゼネレーションなどは、これに近い。若い人々の陥りやすいところ。「心の欲するところに従って矩(のり)を越えず」などということは、わがままものの夢にも及ばない境地である。

と、いうわけで、東洋思想が追求する道は、主観でもなければ客観でもない。このような人の思考の末に出来上がったものではなく、本来的に存在する、いわば実在としての人間自身のありようを追及する、というものでしょう。

4. 百尺竿頭に一歩を進む

このような考え方を端的に物語るのが、次の例です。

宋代第十一世紀のころに、茶陵(とりょう)郁(いく)和尚というのがあった。そこへ慮山から勧化僧が一人来た。話のついでに、郁和尚はこの僧に向かって禅について教えを受けたいと頼んだ。慮山からの男は、こんな話があるといって次のように話した。昔坊さんが法灯和尚に尋ねた、「百尺もある竿の先に登って、なおそれから一歩を進めよということを聞きますが、それはどうしたことでしょうか」と。そしたら法灯は何ともいわずに、ただ「唖(あ)」と叫んだ。これは危ないことでもあるとき、知らずしらず、出るところの一声である。郁和尚はこの話をきかされて、どうしても腑に落ちなかった。
……
ある日他所へよばれて行くとき、驢馬に乗って行った。橋を渡らんとすると、橋の板が一枚破損していたので、驢馬が踏み誤って倒れた。背上の和尚はびっくりして「唖」といった。その時、今まで頭の中でもやもやしていた疑団が忽然破裂して、彼は大悟した。百尺の竿頭をふみ切った。

というわけです。結局のところ、このお話で言いたいことは、頭で考えても「禅」などというものはわからない、ということですね。禅とは、頭であれこれと考えることではなく、人のあり方として、あるがまま実在する自分自身として生きる、ということであるわけです。もちろんそのあるがままは、人としての道に適うものでなければならない、というわけですね。

5. 西洋思想と東洋思想

説明不能を含む考え方は、カントの「定言命法」にもみることができまして、倫理の規則は理屈ではない、というのですね。定言命法、理屈ではないとなりますと、それは人としての自然な心の中から出てくる規則でしかありえません。そのような、人としてのありようの自然な姿が、倫理の基礎にある、ということでしょう。

一方、西洋思想の究極ともいえるプラグマティズムは定言命法を否定するところから始まった、ともいわれております。西洋はカントも生み出したのですが、プラグマティズムや、その極限ともいえるネオリベなどを生み出しており、しかもそのような思想が現実世界で力を用いるところに大きな危機感を感ぜざるを得ません。

いずれにせよ、西と東の考え方の差は、思った以上に大きなものがありそうです。で、どちらのアプローチが好ましいか、ということになりますと、これはなかなか難しい問題です。

第一に、ありのままの人として生きることは、確かに幸せな生き方であるのかもしれません。しかし、それだけでは科学は進歩せず、この世の問題も解決できないでしょう。一方で、すべてを理屈で割り切る生き方も、人という実在の理屈を超えた部分をカバーすることはできず、おのずと限界がある、ということになります。

ここは、主観客観で割り切る世界も重要であるが、割り切れない部分があることも忘れないようにするという、悪くいえば中途半端、よく言えば中庸の思想が大事なのではないでしょうか。