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試論:間主観性上の科学哲学(その2)

昨日に引き続き「試論:間主観性上の科学哲学」の検討とまいりましょう。昨日は、お酒を飲みながら興味に惹かれて書いていたのですが、本日は現在のところは素面です。ま、書いているあいだに、多少たしなむことはある、かも知れませんが、、、

さて、以前のこのブログで、戸田山和久氏の「科学哲学の冒険」をご紹介いたしました。

と、書きまして、この記事を読み直したのですが「試論:間主観性上の科学哲学」のコンセプトは、既にこの記事の中に相当書き込んでありますね。まあ、これと昨日の記事に追加すること、という形で、本日は少々書くことといたしましょう。

まず、第一の論点は、「自然法則は実在するといえるのか」という点です。

この議論がややこしいのは、まず「実在するということはどういうことなのか」という点を明らかにしておかなければなりません。

一般的に、科学者や科学哲学者の立っております「自然主義的態度」、つまりは「素朴な実在論」によれば、実在するということは「人とは無関係に、それ自体で客観的に存在するということである」とされています。つまりは、人間がいようがいまいが、モノはヒトとは独立にそこにある、というわけです。

しかしここで、「客観的」という言葉が問題になります。客観的という言葉は「主観的」の反対の概念なのですが、「主観の対象」という意味と、個人的な思い込みではなく誰にとっても妥当するという、「普遍的」という意味の二通りがあります。この意味合いが混乱して用いられていることが、今日の客観概念をわかり難くしているのではないか、と私は個人的に考えております。

まあ、客観を英語で言えばobjectで、対象もobjectですから、西洋思想がこれらを同一視することも止むを得ないことでしょうし、そもそも、同一視していたからこそ、同じ単語をこれらの概念に用いている、という側面もあるのでしょう。

一方で、東洋の言葉では、主の見方が「主観」であり、客(第三者)の見方が「客観」ですから、(個人的な事情を離れた)普遍的なものの見方を「客観」とする理解が一般的であっても、さほど不思議ではありません。

さて、自然主義的態度なり、素朴な実在論、と言いますのは、「客観」を「対象」と考える傾向にあります。つまりは、「客観的に存在する」という意味は「主観の対象として存在する」ということを意味します。

一方で、フッサール流の、間主観性上に定義された「客観」は、東洋的な意味での客観、すなわち、多くの人にとって受け入れられる「普遍的事実」という意味での客観を意味します。

もちろん、このブログが目指すのは、こちらの意味での「客観」ということなのですが、こちらの解釈を採用する場合、実在の定義「人とは無関係に、それ自体で客観的に存在するということである」から「客観的に」という言葉を抜かなくてはなりません。

なにぶん、後者の定義によりますと、「客観的」とは大多数の人がそうであると認める、という意味と同義ですから、人と無関係、という条件と共に使うことはできないのですね。

と、いうわけで、やっと「実在」の定義にたどり着きました。これはすなわち、「人とは無関係に、それ自体で存在するもの」ということとなります。

さて、本日のテーマであります、「自然法則は実在するといえるか」という点について考えてみましょう。

第一に、万有引力なり、慣性なりが、人と関わりなく存在していたことは明らかでしょう。何しろ、人類が登場する以前から、地球は太陽の周りを回っていたということは、さまざまな研究の結果から推測されています。それどころか、一年の長さが徐々に変っていることなども明らかになっているのですね。

しかし、ここでいう「万有引力」であるとか「慣性」であるとかいった概念は、実はニュートン力学の一部としての概念であって、ニュートン力学そのものは、既に、宇宙の真実ではなく、宇宙の運動を近似的に記述するものである、とされているのですね。

今日では、ニュートン力学を上書きするものとして、相対論があり、量子論があります。で、ニュートンの時代には、ニュートン力学は絶対的な真理であると考えられていたのですが、今日では、相対論も量子論も、仮説の域を出ないのですね。まあ、これらはいまだ完成された理論ではない、とみなされているわけです。

では、いずれ宇宙のすべてを記述する理論が生まれるか、といいますと、これも悲観的でして、物理理論は、どこまでいっても仮説の域を出ないのではないか、とする見方が一般的なのですね。

ということになりますと、これらの物理法則は、実在するといえるのか、という点が問題となります。つまりは、「自然法則は実在するといえるのか」ということですね。

一つのアプローチは、ポパーの傾向性解釈を援用することでして、人が近似的法則を見出すとするなら、そのような傾向が自然界には実在する、とする考え方でしょう。

ニュートン力学は自然そのものではありません。しかし、自然の極めて良好な近似となっております。そのように近似できるという自然が存在することは否定できませんし、だから、近似的な論理であっても、実在の論理である、ということもまた不自然ではないのですね。

しかし、これを受け入れますと、実在には多数の論理が重なることになります。ニュートンあり、量子論あり、相対論あり、というわけですね。そもそも、実在とは、唯一絶対的、という意味合いが裏に隠されていたのではないでしょうか? 実在がいかようにでもありえる、などという世界観を受け入れるのならば、実在を議論する意味などないように思えるのですね。

と、なりますと、結局のところ、広く世間に受け入れられた理論こそ、実在を語るにふさわしい、ということになりそうで、普遍性に立脚した、間主観的実在論の上にこそ科学は展開されるべき、ということになりそうです。

ま、この議論は、しばし続けることにしたいと思います。このようなエネルギーを与えていただきましたこと、科学哲学学会の諸賢には感謝しております次第です。