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石川文康著「カント入門」を読む(続き)

カント入門」の続きです。

さて、前回の記事では、カントの4つのアンチノミーに散々けちをつけてしまいました。で、ついで、というわけでもないのですが、ここで、カントのさまざまな問題点をまとめて述べておくことにいたしましょう。

まず、カントの時空概念に対して、前回のこのブログでは、私の否定的見解を述べました。カントは、時空は、物質とは異なって外界の実在ではなく、人の精神内部の概念に過ぎないと考えているのに対し、前回のブログでは、箱の内部に空洞があるから物を入れることができるのであって、そこには空間が存在するとしか言いようがない、などということを述べました。

時空の実在性は、実はもっとはっきりと述べることができまして、実は、今日の宇宙論では、時空を物質と同じように扱わざるを得ません。この宇宙は膨張を続けているのですが、これは、果てしなく広がる空虚の中を物質が広がっていく、という意味ではなく、ほぼ一様の質量が分布した空間そのものが広がっている、というのが今日の物理学では常識となっております。

これは、表面に星々をほぼ均等な密度に描きましたゴム風船を、空気を送り込んで膨らませている、という状況をイメージしていただければわかりやすいと思います。ゴム風船の表面がすなわちこの空間、というわけですね。

つまるところ、膨張する宇宙において、膨張しているのは物質のある部分の広がりなのではなく、空間そのものが膨張しているのですね。そうなりますと、空間は物質と同様、サイズをもった実在である、というしかありません。

石川氏の「カント入門」におきましては、カントの時空概念を重要な柱としてさまざまな概念を説明しておりまして、この部分を否定されてしまうと、カントの思想全体にわたって説得力がなくなってしまいます。しかし、カントの哲学は、これらの問題点にかかわらず、多くの部分で今日的な意味を持っている、と私は思うのですね。

もちろん、カント自身がそのような説明をしており、カントの思想をたどる以上、このような説明にならざるを得ない、という面もあるのかもしれません。しかし、それでは、その後明らかになった物理学の知見によりカントの理論の一角を崩されると、カント哲学のすべてが崩れてしまう、という印象を読者に与えてしまいます。

カント哲学の今日的な意義の大きさを考えますとき、これは大変にもったいない話である、と私は思うのですね。ここは、今日の物理学で否定されている部分を外し、それでもカント哲学が成り立つか否か、という観点から議論すべきであったのではないか、と私は思う次第です。

さて、カントの思想の評価すべき点は、人間は自らの精神内部の存在である概念(カテゴリー)を用いて物事を考えている、とする点でして、カテゴリーを得るのは悟性であり、それは感性的なものである、とした点です。ここでいいます「感性的」という意味は、本能的、無意識的な精神の働きであり、それをカントはアプリオリな働きであるといたします。

人は、外界の事物を直接知るのではなく、感覚器官のこちら側に現れた表象を、悟性の力によりカテゴライズ、すなわち概念に割り当て、その概念の上に理性が思考をめぐらす、というのが人がものを考えるメカニズムです。

このようなメカニズムは、人の精神活動が大脳における情報処理に他ならないということを考えるとき、非常に説得力をもちます。つまり、人の精神活動といわれる情報処理は、すべて大脳内部で行われており、外界の実在物は知覚に対する信号源としてのみ作用しているからです。

悟性に対してカントは大きな信頼を寄せているのですが、以前述べましたように、この点は少々疑ってかからなければいけません。悟性が怪しげなところこそが、今日の世界に混乱を招いている根本原因であると私は思うのですね。

次に、理性は悟性と異なり、意識的な思考能力ですが、理性は間違える場合もある、といたします。この例として、アンチノミー(二律背反)が示されておりまして、先の記事ではこれらがアンチノミーであることを否定いたしましたが、これらをアンチノミーと考えること自体、理性が間違えることがあるという一例とはなっております。

で、ここまではよいのですが、「カント入門」によりますと、「英知」という第三の知的作用に高い価値をみているのですが、これは理性とほぼ同一の概念です。ここでいう「英知」とは、アンチノミーから逃れた、「正しい理性」という意味と、私は解釈しております。

このあたりにつきましては、まだまだ、「純粋理性批判」を読み解くべきところでしょうが、この概念が、明らかにカントの誤認識であると思われる時空概念から演繹されるのであれば、この点は少々考え直すべき部分のように思われます。

カントの第三アンチノミーに対するカント自身の解といたしまして、「カント入門」では、「英知界」と「感性界」の二つの世界に人は属しており、英知界は物自体の世界であるのに対し、感性界は現象の世界である、といたします。そして、感性界が時間に束縛されているのに対し、英知界はこれを逃れている、と説明いたします。

確かに、人の感覚は時間に束縛されているのですが、人はその束縛を離れて思考することが可能です。すなわち、カントが感性的と呼んでおります、無意識的な人の反射的行動はこの瞬間の働きであり自由という概念を伴わない一方で、自由を意識しております理性は、過去を反省し、未来をどうすべきかと考えております。

人が意識的に思考し、自らの行動を決するというプロセスは、自由の概念の元に遂行されていることから、自由は理性、すなわち英知界に属する、という主張にも一理あるように思われます。

しかしながら、自らの自由意志に基づく行動は、未来に対するリスクをテイクすることであり、未来を知りえないからこそ意味を持ちます。未来を知ることができるのであれば、自由という概念も意味を失います。つまり、自由は時間と無縁ではありえません。

結局のところ理性は、その思考内容は時間を超えることが可能なのですが、理性に基づく思考そのものは時間のくびきを逃れるものではありません。これはたとえば、将棋や囲碁で、持ち時間内で次の一手を考えている情景を思い浮かべれば明らかであり、理性の働きも時間に束縛されているという意味では、感性的活動と何ら異なりません。

カントは、悟性と理性を、人間に備わった、まったく異なった能力であると考えているようなのですが、私が思いますには、これらはそれほど異なるものではありません。これらはいずれも、人の大脳にありますニューラルネットワークの働きによるものであり、無意識に行われるのが悟性、意識的に行われるのが理性、という違いがあるに過ぎません。

これは、以前このブログに書いたことなのですが、たとえば語学など、覚えたての外国語は意識して理解しようとしなければ頭に入ってこないのですが、ある程度慣れてまいりますと、特に意識せずとも、言葉を聞いているだけで、直接頭の中にその意味するところのイメージが浮かび上がるようになります。

カント流に言いますと、当初理性で理解していた外国語が、悟性で理解できるようになった、ということであり、脳科学的にいえば、外国語を直接理解するためのニューラルネットワークが形成された、ということになるのでしょう。トレーニングを重ねたスポーツ選手が、頭で考えるよりも先に体が動く、というのも同じ現象であり、理性と悟性は、人間の精神的能力として、さほど異なる範疇に属するものでもないように、私には思われます。

では、科学法則に一見矛盾する自由とは何か、と考えますとき、これは異なる論理世界に属する事象である、との、この記事の前半でご紹介しました説明が、より真実に近いのではないでしょうか。

人間が扱っております論理世界は、自然科学の世界もあれば、数学の世界もあれば、法律の世界もあれば、経済の世界もあり、また一般的な生活世界もあります。また、企業や教育機関などの組織も、組織ごとに異なる論理で動いており、これら組織の一員であることを意識して行動する際にも、それ相応の論理世界の中で物事を考えざるを得ません。

それ以外にも、ゲームをしたり、アニメを見たり、コミックや小説を読んだりする場合にも、それぞれの世界の内部で思考が行われるのでしょう。こうしたことは矛盾したことでもなければおかしなことでもなく、至極一般的に生じている現象であると私は思うのですね。

それを単一の論理、たとえばニュートンの物理学の論理で、すべて説明し尽くそうとすることに、そもそもの困難さがあるのではなかろうか、と私は思う次第です。