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米澤穂信著「さよなら妖精」を読む

本日は予定を変更して、米澤穂信さんの「さよなら妖精」を読むことといたします。

予定を変更して、と言いますのは、元々は同じ作者の「クドリャフカの順番」について書く予定でした。

この本、購入したのは先週で、実は立て続けに5回ほど読み直してしまったほど面白い小説です。で、ちょっとした謎もありまして、ここに書くにはふさわしい一冊だったのですね。

まあ、ここまで書いたなら、書こうと思っていたことを書かないわけにもいきません。簡単に書いてしまいましょう。

まず、同書は「古典部シリーズ」の3作目で、これまでの2作と打って変わった分厚い本となっております。まあ、分厚い本ですから、古典部シリーズを最初に読まれるのなら、「愚者のエンドロール」からが良いと思いますし、どうせなら、「氷菓」も読まれてからが良いのではないかと思います。

で、謎、と言いますのは、これら三冊の書物としての分類に関わるものです。

まず、第1作「氷菓」と第2作「愚者のエンドロール」は、元々は角川スニーカー文庫から出版されたものが角川文庫に入っております。これは、第3作「クドリャフカの順番」の出版を機会にそうした、ということで、結局のところ、角川書店の判断は、この一連の書物をライトノベルズからミステリーに、分類区分を変更したものと思われます。

で、確かに、「愚者のエンドロール」は、前回ご紹介したように、本格推理モノともいえる仕上がりになっております。また、第1作も、第3作も、ミステリーと呼ぶことが間違っているとはいえません。

しかし、これは、私が見たところでは、ライトノベルズとしての魅力が輝いている作品であるのですね。あ、世の中には、ミステリーはライトノベルズに比べて一段と高級である、などと考えておられる方がおられるかも知れませんが、私に言わせればそれは偏見でして、ミステリーにも傑作と駄作があるし、ライトノベルズにも傑作と駄作があります。そして、ミステリーの駄作よりはライトノベルズの傑作の方が高級だし、ライトノベルズの駄作よりはミステリーの傑作の方が高級である、というわけですね。

で、クドリャフカの順番は、ミステリーとしてみた場合は欠点が目立つ作品だけど、ライトノベルズとしてみた場合は傑作である、と私は思うわけで、角川書店のこの判断は、少々おかしいのではなかろうか、と疑問に思った次第です。

で、この疑問に対する私の推理は、米澤氏が角川書店の「今度はあまりライトではなく、がっちりヘビーな作品を書いてくださいね」などという依頼にこたえて、ヘビーな作品を書いてしまったのではなかろうか、というものです。

ここで生じました多少の誤解が、「ライト/ヘビー」の意味でして、内容をライトノベルズではない、ミステリーとして書いて欲しいとの角川書店の思惑に対し、米澤氏が、物理的にヘビーな作品、すなわち、枚数の多い、書物にいたしますとその重量が重たくなるような作品を書いてしまったのではなかろうか、というのが私の推理です。

まあ、これは半分冗談でして、そんなことがありそうでないことぐらい、私も理解しているのですが、、、

と、簡単に済ませる予定の、クドリャフカの順番のご紹介が長くなってしまいました。以下、「さよなら妖精」のご紹介とまいりたいと思います。

まず、一言でいえば、これは古典部とは似て非なるものでして、ライト/ヘビーという意味では極めてヘビーな一冊です。あ、物理的に、という意味ではなく、内容が、なのですね。

以下、ひょっとするとネタバレになるかもしれませんので、あらゆる意味で同書の内容を知りたくない、という方は、ここでお別れされるようお願いいたします。

少し改行を入れておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

もう宜しいでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

まず、以下の私が同書から受けた感想は、私と多くの読者のあいだで、おそらく相当に異なっていると思います。私の感想を理解していただくためには、この題材と私の関わり、ないしこの題材に対する私の考え方について、まず、知っておいていただく必要があるでしょう。

この題材、といいますのは、ユーゴスラヴィアをめぐる一連の問題で、これが同書の柱にもなっているのですね。

私は、大昔、クロアチア語で書かれた文献を読む必要が生じまして、セルボ・クロアチア語の勉強をしたことがあります。この言語はユーゴスラヴィアで主に使用されている言語でして、言語を勉強することは、その言葉が使われている場所と、その言葉を使う人々の文化、歴史を知ることでもあるのですね。

で、ユーゴスラヴィアという国は、特殊な地政学的条件下にありました。東にトルコがあり、西にイタリアがあり、南はギリシャ、北はオーストリアがあります。これらの国々は、ある時代に急速に勢力を伸ばした時期があったのですね。で、領土を拡張する際に、その通路となりますのがユーゴスラヴィアであったわけです。

これらの強国が、ただ通り過ぎていっただけなら良いのですが、そのあとに、人々を引き連れてくる、文化を残していく。これが繰り返された結果、ユーゴスラヴィアには、さまざまな文化をもつ多数の民族が同居し、しかも互いに憎みあっておりました。

そんな地帯をまとめましたのが、山岳ゲリラ「パルチザン」を率いますチトーでして、自国の多民族を連邦共和国の形で一つの国としてまとめるとともに、東西対立の冷戦の時代に、いずれの陣営にも属さない、「第三世界」のリーダー的存在としてその存在感を高めておりました。

同書には、ソビエトに入れてもらえなかった旨の記述がありますが、入れてもらえなかったのではなく、大変な努力の結果として、いずれの陣営にも属さない、独自の道を保ち続けた、というのが事実に近いものと、私は考えております。

1980年のチトーの死と1991年のソヴィエト連邦崩壊の結果、1992年にユーゴスラヴィアは分裂し、事実上消滅しました(国名は2003年まで残っておりましたが)。その過程で、多くの悲劇が起こったことは、記憶に新しいところです。

で、この惨劇を、ユーゴスラヴィアという国を人為的にまとめることに無理があったと考える人が多いのですが、私はこの考え方には、少々反感を覚えます。

もちろん、ソヴィエト連邦が周辺の国家を、武力と言論統制という暴力機構を駆使してまとめあげてきたことは正しいことだとは思わないし、無理な話だと思うのですが、ユーゴスラヴィアの崩壊は、ソヴィエトの崩壊とは全然別の話だと思うのですね。

ユーゴスラヴィアという国、ないしバルカン半島北部という地域は、元々が不幸を抱えておりました。つまり、その地帯には、独自の文化を持つ多くの民族が入り混じって生活しており、それらが互いに憎しみあっておりました。

このような事情は、ユーゴスラヴィアに責任があるというよりは、周辺の大国の野望の結果であり、それらに見捨てられた人々が住む地帯であったのですね。

このような地域をまとめ、第三世界のリーダー的存在にしたチトーは、極めてすぐれた指導者であったと同時に、その理想に共感し、ユーゴスラヴィア人たろうとした人々を、私は心から尊敬したいと思います。

彼らの試みは、結果としてはついえました。しかし、たとえ50年足らずの短い期間であったとしても、そういう国家がこの地上に存在し、独自の輝きを見せていたという事実は永久に消えないのですね。

で、これは、実は人類全体にとりましても、希望であり、宝である、と私は考えております。

大きく話を振りますと、経済の発達に伴い、社会は村落的共同体から都市的共同体へと変貌いたします。これは、先進国におきましては、都市から農村部へと既に範囲を拡大しておりますし、いずれは、発展途上国におきましても、同様な変化が起こるはずです。

で、地球全体が都市的共同体に変貌を遂げたとき、そこに登場するのはユーゴスラヴィア的世界である、ということが最大の問題なのですね。つまりは、さまざまな民族が入り混じって存在する、かつてユーゴスラビアにみられた状況が世界中に現れることとなります。

ユーゴスラヴィアという国家は、ある意味、人類社会の未来を先取りした存在であったのではなかろうか、と私は思うわけでして、それが無理な存在である、などということになりますと、人類の未来ははなはだ暗澹たるものとなるわけです。

しかし、ユーゴスラヴィアという国家は、少なくとも50年近い期間にわたって存在しえたし、ユーゴスラヴィア人たらんと考えた人達も存在したという事実は、我々の未来にも一抹の希望を与えてくれるのではないか、と思うわけです。

それがそう簡単なことではない、ということは、重々承知しているのですが、、、

で、そういう背景をわかっていただいた上での同書に対する感想ですが、この本は一度しか読めない本である、と覚悟を決めて読む本である、と私は思います。少なくとも、これから読まれる方は、この本は、これまでのラノベとは全く異なる本である、ということを知った上で読まなければいけません。

極端に言えば、この本を読むことは、一度しかない人生を経験することである、ともいえるでしょう。少なくとも、私には、二度目を読むことができない。

ところどころ、ページを開いて読むことはできるのですが、他の米澤氏の書物と異なり、最初から読み直す、ということがどうしてもできないのですね。

まあ、ネタバレご法度とのルールからは、こんな書き方しかできませんが、最初に読まれるときに、ゆっくりと、熟読されることを、改めて、お奨めいたします。なにぶん、人生は一度しかありませんので。

まあ、このような気持ちは、多分、米澤氏も何らかの形で持っていたのではないか、という気がします。実のところ、古典部シリーズで、折木の姉がめぐっていたのは、この手の世界。これを、古典部シリーズの最終巻として出していただいた方が良かったかも、と思うと同時に、安楽な生活が保ててよかった、などと思う自分が恨めしいのですね。