コンテンツへスキップ

柴宣弘著「ユーゴスラヴィア現代史」を読む

本日はがんばって2冊読むことといたします。その第一は柴宣弘氏の「ユーゴスラヴィア現代史」です。

実は以前のこのブログで、米澤穂信氏の「さよなら妖精」を読んだのですが、本のご紹介はそっちのけでユーゴスラヴィアについて語ってしまいました。

私は大昔にセルボ・クロアチア語を勉強したことがあり、当時のユーゴスラヴィアの文化と歴史を多少知る機会がありました。この地域とそこに住む人々には心惹かれましたし、その後の悲劇的な運命に心を痛めておりました。

でも、語学を学ぶ際に出てまいります歴史的知識など、この地の複雑な歴史のごく一部に過ぎません。そこで、たまたま書店で見かけたこの本を読んでみることとした次第です。

ユーゴスラヴィアの非常に複雑な歴史を文字数の限られたこのブログで語ることは非常に困難です。同書の各ページも重大事件のてんこ盛り。一読しただけでは展開の複雑さについていけません。

そこで、Wikipediaの記事も参考にしていただくこととして、ここでは概要についてのみご紹介し、私の考えについて多少述べさせていただくことといたします。

まず、「南スラブ」という意味のユーゴスラヴィアはバルカン半島の南部、ギリシャの北側に位置する地帯を指す言葉です。

大雑把には、この地域には3つの勢力が支配的でした。第一が東側に位置いたしますセルビア、第二が北部から西部を取り囲みますクロアチア、第三がこの二つの間に挟まれましたボスニア・ヘルツェゴヴィナです。

セルビアとクロアチアは中世に王国が栄えたこともあり、双方独自の民族意識を持っております。宗教的には、カトリックのクロアチアに対してセルビアは東方教会に属します。ボスニア・ヘルツェゴヴィナはセルビア人、クロアチア人、そしてムスリム(イスラム教徒)が混在して居住する地帯でした。

この地域は、長年にわたって東西両勢力の対峙する場所となりました。その最大の対立が、東のオスマントルコと北のハプスブルク帝国でして、セルビアとボスニア・ヘルツェゴヴィナを支配下におきましたオスマントルコに対してクロアチアを支配下におきましたハプスブルク帝国がこの地域で厳しく対峙する時代が続きました。

1918年、第一次世界大戦の終焉とともに、ハプスブルク帝国とオスマン帝国が時を同じくして衰退いたしますと、この地に後にユーゴスラヴィア王国と名を改めます統一国家が誕生いたします。この「第一のユーゴ」はセルビア人主体の国家であり、クロアチア人は不満を抱えました。

1939年、第二次世界大戦が勃発し、ユーゴも1941年に日独伊の三国同盟に加盟いたします。しかし、セルビアの住民が反発し、クーデターが勃発いたします。これにより樹立された新政権は三国同盟を離脱、連合国に鞍替えするのですが、ドイツが猛攻の末セルビアを占領、傀儡政権であるセルビア救国政府がつくられます。一方、クロアチアはドイツ支援のもとにクロアチア独立国を樹立いたします。

ナチスドイツ占領下のセルビアにおいて抵抗運動を起こしたのがチトー率いるパルチザンでして、優勢なドイツ軍を相手に苦戦を続けますが、1945年の終戦とともにユーゴスラヴィア全土を掌握、共産党政権下での第二のユーゴが誕生いたします。

ここで注目すべきは、ユーゴは社会主義を標榜したのですが、東側の諸国としては唯一ソヴィエトの支援なしに独立を勝ち得たという点です。ソヴィエト連邦はユーゴを衛星国化しようとするのですが、ユーゴは独自路線を貫きます。

1948年にユーゴはコミンフォルムを追放され、ソヴィエトの援助が受けられなくなります。そこで西側諸国にも接近、非同盟諸国として東西いずれの陣営にも属さない、独自の社会主義国家の建設を進めることとなります。

ユーゴスラヴィアを構成しておりましたのは、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソヴォの2つの自治州で、共和国には(後には自治州にも)自治権が認められておりました。

パルチザンは元々セルビア人が中心となっており、チトーのユーゴもセルビア人が主体となっております。チトーはセルビア色を抑えて国家運営にあたります。しかし、国民所得の高い北部のスロヴェニアやクロアチアの人々は、その他の地域への経済的貢献を強いられていると感じる一方で、セルビア人は、自らの民族意識が抑制されていることに不満を感じておりました。

それぞれに異なる思いを抱く多民族が混在するユーゴスラヴィアの統一を何とか保っていたのが、統一の象徴であるチトーの存在でした。しかし、1980年にチトーが亡くなりますと、おりからの経済危機で鬱積しておりました諸民族の不満が一気に高まります。そんななか、セルビアの権力を掌握したのがセルビア民族主義を掲げるミロシェヴィチでした。

セルビア共和国のコソヴォ自治州は、経済的に遅れており、多数を占めるアルバニア系住民が暴動を起こします。コソヴォ在住のセルビア人を保護すべく、ミロシェヴィチはこれら自治州をセルビア共和国に統合しようといたします。これに対して、コソヴォは1990年、コソヴォ共和国として独立を宣言いたします。

1989年から90年にかけて、東欧諸国がソヴィエト連邦を離れ民主化いたします。この流れを受けて1990年、ユーゴスラヴィアも自由選挙が行われるのですが、当然のことながら、各共和国に民族性の高い政権が誕生いたします。

1991年、スロヴェニアとクロアチアは独立を宣言いたします。そしてこれらの共和国軍と連邦人民軍(セルビア側)の間に内戦が勃発いたします。クロアチア共和国内部のセルビア人居住地域で、セルビア人による暴動も発生し、連邦人民軍はこのセルビア人を守るためにも動いております。

紛争の深刻化をみて、各共和国は独立に動きます。また、民族が混在するボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦が深刻化いたします。この過程で、セルビア側の残虐行為がメディアに大きく取り上げられ、ミロシェヴィチ悪玉論が西側の基本認識となってまいります。

こうして、紛争は西側諸国対セルビアの形となり、EUによるユーゴ空爆を経てようやくセルビアも妥協、ユーゴスラヴィアはかってこれを形成しておりました共和国が分離独立する形で決着した、というわけです。

問題は、ユーゴの紛争が何故に深刻化したか、という点です。

第一に、この地帯には多数の民族が混在しております。第二に、周辺強国がこの地帯を巡って争いを続けた紛争の絶えない地帯であり、その過程で、さまざまな残虐行為が繰り返されておりました。この結果、ひとたび紛争が発生いたしますと、自らの身に危険が及ぶことをまず心配することとなり、殺られる前に殺れ、という心理に囚われてしまいがちです。ソヴィエトとの戦争に備えて、大量の武器が各地に保管されていたことも裏目に出てしまいました。

また、政治家やマスコミが民族対立を煽ったことがこの悲劇のきっかけとなりました。同書は、ミロシェヴィチは西側が思うほどには悪人でないとするのですが、ミロシェヴィチが民族主義を煽ったことには相違なく、彼がこの悲劇を招いた大きな要因であるということはいえるでしょう。

もちろん、ミロシェヴィチと似たようなことは、各共和国の政治家がみなやっていたことも事実ではあるのですが、この地域のリーダー的存在であるセルビアの指導者には、よりいっそうの自重が求められますし、彼の民族主義的言動が他の共和国の民族主義をいっそう煽る結果となったことも想像に難くはありません。

チトーの理想は、この地域の人々を個々の民族を離れた「ユーゴスラヴィア人」とすることであったのですが、この試みには失敗した、と柴氏は書きます。しかし、遅々とではありますが、民族間の混血も生じ、ユーゴスラヴィア人としかいいようのない人々が生まれつつあったことも事実です。結局のところ、50年程度という時間は、民族の性質を変えるには時間が短すぎた、ということではないでしょうか。

もう一つは、民族対立を煽る論調が高まった背景には経済危機があったことも見逃してはいけません。

以前の中国における反日感情の高まりを見ておりましても、民族感情を煽ることで目先の問題点から国民の目をそらす、という政策はコストパフォーマンスの高いやり方でして、国民の不満は他民族に向かい、政府は安泰となります。俺たちは何も悪くない、悪いのはみんなあいつらだ、というわけですね。

しかし、こういうことをして何か状況が改善されるかといえば、何も良くはなりません。当座の不満は、確かに外にそらされるかもしれませんが、根底にあります経済の問題は何ら改善されませんし、相手側の反発を招き、さらに事態を悪化させるだけなのですね。

中国の反日感情の盛り上がりに対し、日本側の反応は極めて冷めたものでした。曲がりなりにも当時のユーゴスラヴィアを導いておりましたセルビアのあるべき対応は、まさにこのときのわが国のような冷めた対応であるべきだったのであり、ミロシェヴィチの対応は最悪であったと私は思います。

さて、かつてユーゴスラヴィアを構成しておりました諸共和国は、民族主義者が望むように、それぞれが独立を果たしました。これですべての人々は幸せになったのでしょうか。

ヨーロッパの各国はEUを形成し、統合の方向に動いております。旧ユーゴの国々も、その一部はすでにEUに加盟する方向に動いております。ユーゴスラヴィア人は祖国を失ってしまったのですが、EUがこのまま発展を続ければ、何百年か先には「ヨーロッパ人」がこの地の多数を占めるようになるでしょう。

経済が発展し社会が拡大するに従い、村落共同体的な紐帯は力を弱め、より開かれた都会的社会へと変貌いたします。じつは「民族」という紐帯は村落共同体的な概念であって、いずれは社会的な力を失うこととなるはずです。

ユーゴスラヴィアには、確かに困難が多すぎたことも事実でしょうし、経済の発達に対して理想を追うのが早すぎたということもあったのでしょう。しかし、このような民族の違いを超えて統合の道を歩むのは間違った方向ではありません。

ユーゴスラヴィア紛争が勃発した際の東西諸国の対応は、必ずしも適切なものではありませんでした。しかしそれ以前に、経済的な困難が早期に解決されていたら、ユーゴスラヴィアにおける紛争は最初から起こらなかった可能性が高いのですね。

なにぶん、同書によりますと、そもそものきっかけはコソボの首都プリシュティナで起こりました次のような事件であったわけですから。

自治州の州都プリシュティナの大学生は経済的不満を最も強く感じており、アルバニア人学生が学生寮食堂の料理のまずさに不満をぶつけ、食堂を破壊したことが「コソヴォ事件」のきっかけであった。

これだけの悲惨な出来事の始まりは、なんともつまらない話であったのですね。もちろん、他にも似たようなことはあったのでしょうが、経済的不満が紛争の根底にあったことは事実なのでしょう。

このようなことになる前に、わが国も何らかの対応ができたのではなかろうか、貧困の撲滅を目指すという方向も、紛争を軍事的に抑える以上の国際貢献なのではなかろうか、との思いを強く抱かせる一文ではあります。