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「古代史の基礎知識」を読む

本日は平日ですが、先週のブログでご紹介いたしました吉村武彦編著「古代史の基礎知識」につきまして書き溜めた内容をアップいたします。

実は、これを読もうと考えましたきっかけであります小熊英二著「単一民族神話の起源」もめでたく入手しているのですが、こちらは読むのにまだまだ時間がかかります。こちらのご紹介はまたの機会といたしまして、本日は、古代史の基礎知識に限ってご紹介することといたしましょう。

日本の古代といいますと、縄文時代から平安時代までをカバーする時代でして、のどかな狩猟の民のあいだにヤマト王権が誕生して貴族文化が栄えるまでの時代を指します。源氏などの武家が活躍するのは、時代区分でいえば「中世」ということになります。

同書もこの広い時代範囲を扱っているのですが、ここでは、奈良時代以降は省略いたしまして古墳時代を中心に、私の意見を交えながら、同書を読んでいくことといたします。なにぶん、奈良時代以降は資料も整理されているのですが、古墳時代には何があったか良くわからないことが多く、ロマンに満ちた時代なのですね。

さて、縄文時代の日本は、他国に例を見ない豊かな地域であった、と同書は述べます。これは、四季折々の多様な天然資源に恵まれていたためで、狩猟の民としては群を抜いて虫歯発生率が高いことからも、その豊かな食生活が裏付けられるとしております。

また、わが国の前期縄文土器は世界最古の土器であるとのこと。これは、わが国の国土が高頻度で掘り返されていることも理由の一つではあるのでしょうが、その食生活の豊かさが人類の中でも先進的な文化を育んできたといえるのではなかろうか、と私は思います。

さて、この時代のロマンの最大のものは邪馬台国でして、九州説と畿内説が激しい論争を繰り広げてきたことは記憶に新しいところです。しかし、同書はほぼ畿内説で決まり、といった書き方をしております。

これは、奈良盆地にあります古墳が卑弥呼の時代(AD250年ごろ)以前まで遡れること、同じ時代の都市遺跡であります纏向(まきむく:駅名は巻向)遺跡が発見されたことなどから、邪馬台国が畿内にあることが自然であると、近年みなされるようになったものです。

纏向遺跡は、わが国で最も古い大規模な都市の遺跡であり、日本各地で作られた土器が発掘されております。また、祭祀に使ったとみられる遺品も大量に発掘されており、いかにも卑弥呼がかつてここに居を定めたように思われます。

実在した最も古い天皇と考えられております崇神天皇の王宮も磯城(しき)郡纏向の地にありました。崇神天皇の没年は、崇神天皇陵の建造年代から350年前後と考えられ、卑弥呼の時代からほぼ100年後に相当いたします。

磯城郡纏向という地は、古くは難波付近で大阪湾に注ぎます大和川(写真はこちら)が近くを流れており、舟による物資の運送が可能でした。卑弥呼が中国に使者を派遣していることからもわかりますように、当時の交通は相当に発達しておりました。中国への最終出発地は博多あたりでしょうが、瀬戸内海の海運や山陽道も整備され、途中にはいくつかの拠点もありました。

そうみてまいりますと、磯城郡纏向というこの地は王宮を営むには絶好の地でして、交通の便が良く、かつ守りやすい場所ではありました。

「古代史…」のご紹介に戻しましょう。歴代天皇は、第1代の神武天皇に始まり、崇神天皇が第10代です。この間の八代の天皇は、記紀には名前が見えるのですが実在が疑わしい闕史(欠史)八代といわれており、神武天皇と崇神天皇を同一人物とみなす考えもあります。崇神天皇には「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」なる記述があり、崇神天皇が実質的な初代天皇であるものと考えられております。

個人的には、卑弥呼が250年ごろに大都市纏向に居を構え、その百年後には崇神天皇が同じ地で亡くなっていることを考えますと、この100年間になにがあったかということが大きな謎であり、興味を惹かれるところです。

この時代の直前には、大和を中心とする銅鐸文化圏と、北九州を中心とする銅剣銅矛の文化圏という二つの文化圏があったことが発掘物の分布からわかっております。祭祀の道具である銅鐸は卑弥呼との関連をうかがわせる一方、軍事政権でありますヤマト王権は銅剣銅矛の北九州文化圏に近い存在であるとの印象を受けます。

これから考えますと、当初北九州を拠点としたヤマト王権の先祖が西に進み、ついには卑弥呼一族の拠点であります磯城纏向を占領した、と考えるのが妥当ではないかと思います。それにしても、邪馬台国はヤマト、ですよねえ。ここで名前を変えなかったということは、平和裏に事が進んだのかもしれませんね。結婚したとか、、、ま、単に「ヤマトノクニ」という地名であった、という落ちかも知れませんが。

まあ、こんなことは、一時期ブームになりました邪馬台国論争の過程ですべて語りつくされているのかもしれませんが、いろいろと思いを馳せるのは面白いことではあります。

再び同書の内容に戻ります。10代崇神天皇の後を引き継ぎます11代垂仁、12代景行天皇は、磯城纏向の王宮を引き継ぎます。しかし、在非不明の二代に続く15代応神天皇と16代仁徳天皇の代になりますと、王宮は大阪平野の難波の地に移ります。

大阪と纏向はJRで1時間ほどの距離にありまして、大して遠くもありませんが、朝鮮半島の情勢が緊迫してまいりましたことが、アクセスの良い大阪の地に政治の中心を移した理由ではなかろうか、と同書では述べております。

仁徳天皇から21代雄略天皇までは、宋書の「倭の五王」に相当いたします。しかし、仁徳天皇の直系は25代武烈天皇で絶え、応神天皇の五代目の子孫であります継体天皇が26代天皇となります。

この後の安閑、宣化の両天皇の時代は少々はっきりしておりません。あるいは内乱があったのではなかろうか、といった説が唱えられております。この頃は、朝鮮半島の情勢が緊迫化し、新羅に扇動された筑紫の反乱など、世が乱れた時代ではありました。

29代欽明天皇の時代になりますと蘇我氏が力を増してまいります。そして、30代敏達天皇、31代用明天皇の時代には、蘇我氏対物部・中臣氏の対立が始まります。そして用明天皇の没後、ついに武力衝突が発生し、蘇我氏は物部氏を滅ぼし、32代の崇俊天皇が即位いたします。しかし、崇俊天皇に疎んじられたと考えた蘇我馬子は、なんと崇俊天皇を暗殺してしまいます。

天皇暗殺という大事件のあと後継者選びは難航いたしますが、蘇我氏主導の下、本邦初の女帝であります推古天皇が第33代天皇に即位いたします。推古天皇となる前の名前は額田部王女でして、欽明天皇の娘にして敏達天皇(異母兄)の皇后です。そして、先代の用明天皇の子、厩戸王子(いわゆる聖徳太子)が立太子(後継者として認定されること)し、以後の政治を実質的に指導してまいります。

用明天皇崩御から聖徳太子大活躍の時代というのは、わが国の歴史の中でも波乱万丈の時代でして、大陸では隋から唐に代替わりし、朝鮮半島を巡るわが国の立場も緊張をはらんだものとなっております。国内におきましては、蘇我馬子がなにやら陰謀をめぐらしておりますし、厩戸王子のライバルであります竹田王子も存在いたします。

そんな中、初の女帝であります推古天皇が厩戸王子の後ろ盾となって采配するという、なんともドラマティックな時代なのですね。まあ、アニメかラノベにしていただきたい時代ではあります。厩戸王子、最後もドラマです。なんと、愛妻のあとを追うように同じ年の622年に没しておりまして、なんとも泣かせる話ではあるのですね。

さて、厩戸王子の時代は、悪役、蘇我氏も健在なのですが、945年、35代皇極天皇の時代になりますと、中大兄皇子と中臣鎌足によります蘇我氏暗殺が勃発いたします。これがいわゆる大化の改新です。しかし、皇極天皇が孝徳天皇に譲位したり、孝徳天皇の病死を受けて復帰した37代斉明天皇(35代皇極天皇の重祚 )はさしたる業績も上げないまま、無駄なハコモノ行政に終始して没します。

この後を引き継ぎましたのが38代天智天皇でして、大化の改新を行いました中大兄皇子その人であります。半島情勢は、白村江での敗戦後、専守防衛に徹するしかありません。大宰府の防衛を強化する一方、戸籍の整備など、律令制度の充実が図られます。

天智天皇の死後、子の大友王子と弟の大海人王子とのあいだに壬申の乱が勃発、これに勝利した大海人王子は39代天武天皇に即位いたします。実はこれまで「天皇」という称号を用いてきましたが、最初に天皇という称号を用いたのは天武天皇です。天武天皇は末年、藤原京の造営を開始し、これから、平城京、平安京と、都が作られていくことになります。

ここで、天武天皇の代数を39といたしますのは、実は古い数え方でして、大友王子も即位したとみなして39代は弘文天皇とするのが最近(明治3年以降)の風潮です。

話がわかり易いように、ここは最新の表現を援用し、天武天皇は40代といたしましょう。その後、41代持統天皇、42代文武天皇、43代元正天皇と続きまして、710年の奈良時代の始まりにつながる、というわけです。

さて、この時代に興味をもちました理由は、日本民族とはいったいなんであるのか、という観点からこの時代をみていきたいと考えたからです。

まず、「日本」の国号は701年の大宝律令で初めて制定されました。「日本(ひのもと)の」は「やまと」にかかる枕詞であり、「倭」という国名があまり良い意味を持たないことから、名称を変更しようとしたものでしょう。なら、「やまと」でも良かったと思うのですが、これでは中国に「邪馬台国」と言われてしまいそうですしね。

で、なんで「倭」かといいますと、おそらくは「我(わ)」と自称したのがそもそもの発端ではなかろうか、と個人的には考えております。「わが国は」などというものだから「倭国」ということにされてしまったのですね。ちなみに中華思想の元では、周辺諸国にはあまり良い意味の文字を割り当てません。

で、「やまと」を「大和」と書くのは「倭」を意識してのことでしょう。つまりは、「倭」と同じ音の良い意味を持つ漢字「和」をあて、それに「ヤマト」の読みをあてた、というわけです。

なんでヤマトかといいますと、もともとこの地域(クニ)は「ヤマトノクニ」で、邪馬台国でもありました。漢字で書きますと山跡の国でして、磯城纏向の古代都市は小山を削って造られていたのかもしれませんね。

まあ、このあたりは考えればキリがありません。

問題は、日本民族、という概念なのですが、これは古代に求めるのはとても無理な状況です。なにぶん、ずっと後になります平安時代の842年に新羅人の帰化を禁止しているくらいでして、それ以前は日朝間の往来は自由、永住も可能であったのですね。

元々、わが国といたしましては、技術にすぐれ、国際的な情報をもたらしてくれます半島の人々を重用する理由は多分にありました。わが国からみますと、朝鮮半島の人々は同胞であったのですね。

もちろん、半島側から見れば日本は遅れた地域でして、この非対称的な認識が後々の行き違いとなります。まあしかし、そういうものであるとわかるだけでも、なかなかに収穫のある一冊でした。