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大澤真幸著「不可能性の時代」を読む

本日は平日ですが、大澤真幸氏の「不可能性の時代」を読んでみたいと思います。

同書の構成

先日のブログで、青木保氏の「『日本文化論』の変容」を読みましたが、大澤氏のこの本も、異なる角度から同じ時代のわが国を取り巻く文化・精神状況を分析している、なかなかに面白い書物です。

まず同書の内容を簡単にご紹介いたしましょう。同書は6章構成となっておりまして、それぞれの章の表題と概要は次のようになっております。

I 理想の時代:日本の敗戦後から1970年ごろにかけてのわが国は理想を追求する時代であり、経済的な豊かさが求められます。戦死者に対してわが国は正当に応えていないのではないかとの後ろめたさも残っているのですが、この思いは忘れ去られます。

II 虚構の時代:1970年代の後半以降、酒鬼薔薇事件やオーム真理教による一連の事件など信じがたい犯罪が発生し、人間精神は現実感から乖離する傾向をみせます。現実を超越した村上春樹の小説がはやり、アニメブームが生じます。

III オタクという謎:虚構の時代に出てまいりました、現実に背を向け、特殊な趣味の仲間集団に傾注するオタクに言及がなされます。

IV リスク社会再論:この章では「リスク」をキーワードに今日の社会を論じます。出てまいります話題は「下層社会」「テロと監視社会」「ネットにおける利用者情報の扱い」「地球温暖化」などでして、大澤氏独自の用語「第三者の審級」がこれらを横串として貫いております。これにつきましては、後ほど解説することといたしましょう。

V 不可能性の時代:現在は、「現実への逃避と極端な虚構化」に引き裂かれていること、すなわち、現実が虚構であるかに見える現代社会が語られ、ここでも著者は「第三者の審級」が困難であることから事態は絶望的であるといたします。

VI 政治的思想空間の現在:この章では「多文化主義」と「原理主義」のいずれもが解決策とはならず、無神論こそが将来の道を開くといたします。

:最後の部分で、小さな社会が相互に結び合ってできる社会こそ理想的な社会であるとして大澤氏は同書を終えます。

ポストモダン思想の限界

さて、同書を理解するためには、まず、大澤氏のいう「第三者の審級」が何かということを理解しなければいけません。大澤氏はこの用語を「第三者の審級とは、規範の妥当性を保証する、神的、あるいは父的な超越的他者のこと」であると定義いたします(p167)。

この定義は少々問題があるように私には思われます。と、いうのは、そのような超越的な他者が不在であるというのが「多文化主義」なり「文化相対主義」なのであって、多文化主義に依拠せざるを得ない今日においては、このような概念は捨てざるを得ません。

もちろん、であるが故に大澤氏は最後に「無神論」へと回帰するのでしょうが、無神論も多文化主義で扱われる文化の一つであり、そこに絶対的な価値を見出すことはできません。

ポストモダンの思想は、西欧文化絶対の立場から文化相対主義に移り変わらざるを得ないという時代背景の元に生まれ、絶対的価値(大きな物語)の喪失による社会全体の混乱した状況を描き出します。そして、小集団中心の社会への移行もポストモダンの指摘することです。

しかし小集団といえども、互いに何らかのネットワークで結ばれるはずであり、これらを結び合わせる論理なりプロトコルなりは存在するはずであり、その部分こそが社会全体を議論する際のポイントとなるはずである、と私は思うのですね。

ベースとすべきは「普遍妥当性」

では、なにをベースに議論すれば良いのか、という点が問題となるのですが、それこそが「普遍妥当性」であると私は考えております。なにぶん、「普遍性」という言葉は「文化的な差を超越する」という意味であって、多文化世界においても意味がある概念こそが「普遍妥当性」を有する概念だからです。

これにつきましては、抽象的に述べても理解していただくのは難しいと思いますので、いくつか「普遍妥当性」を有する概念の例をあげることといたしましょう。

まずは「カラシニコフ AK47」(以前のブログ参照)。この自動小銃は、旧ソヴィエト連邦の軍人にとってもアラブのゲリラにとっても同じように頼りになる武器であり、その優秀さは米軍も認めております。銃器の優劣は、文化の壁を越えて同じように理解され、普遍妥当性を有する概念であるといえます。

互いに銃撃戦を行っている敵味方のどちらであろうとも、弾があたれば人は傷つき、あるときは死に至ります。この厳然たる事実は、兵士の信仰にも文化にも関係のない普遍的な事実であり、そんなことは敵にも味方にも常識です。世界を分析するときには差異が目立つものですが、それ以上に普遍妥当性は、それこそ普遍的に存在しているのですね。

一般に、自然科学やこれを利用した技術の分野における知識や成果は普遍妥当性をもちやすいといえます。これは文化の違いに関わらず、人は同じ自然界の中で生きているからであって、精神をその中に保っております人の肉体もまた、同じ自然界の一部であるからに他なりません。

もう一つは市場取引でして、株式相場にせよ、商品相場にせよ、為替相場にせよ、文化を異にする参加者の間でも一つに値が決まり、これを参加者は同じように解釈し受け入れることとなります。

市場の現在を伝える情報や、その他の情報、たとえばニュースなども、それが信頼できるものであれば普遍妥当性を有します。金総書記の言葉なども、その内容は普遍妥当性を有しないといえども、彼がそのような言葉を口にしたという事実に関しては普遍妥当性をもちえます。

現実の世界は、多文化並存の世界であるにもかかわらず、これらの文化のあいだでコミュニケーションが成立し、取引が行われているのは、とりもなおさず普遍妥当性に基づくコミュニケーションが成立しているからに他ならず、社会を分析する場合も、これを普遍妥当性に基づいて行うのであれば、その対象が多文化主義であろうとも、いずれの文化にとっても価値を有する見通しを持ちえることとなります。

実はこの「普遍妥当性」は、ポストモダンの思想家がなぜか忘れていたものでして、大澤氏の同書の分析もポストモダンの思想を引き継いだ形で、普遍妥当性という手がかりには触れられておりません。この結果、過去の分析は良いとしても、将来の見通しがはなはだ心もとない内容となっております。

理想の時代から虚構の時代へ

大澤氏は、敗戦後の「理想の時代」から1970年代に「虚構の時代」に転じたと述べます。これは全くその通りだと私も思います。戦後の焼け野原から経済的に復興することと、戦前の政治体制や国粋思想に対する反省から、新しい国民の総意とこれに基づく政治体制をつくりあげたのが1970年ごろまでの日本の姿であったのでしょう。

しかし、経済が復興を遂げ、左翼運動が力を失っていく1970年以降、日本社会は全体に管理が強化され、個人個人の目標はフィクションとして与えられたものとなります。これに人々が気づいたのがバブルの崩壊した1990年以降であり、特にそれに気づいた若年層の一部には現実感を喪失するという問題が現れたのではなかろうか、と私は推測いたします。

このようなことは、わが国に限らず、先進国で一般的に生じていたように私には思われます。

そもそも神にしてからが、デカルトがほのめかしたように、広がりとしての外界の実在ではなく、人の精神内部に生じる「属性」として存在するのであり、カントに言わせればそれは概念的実在であり、神の絶対性はその普遍妥当性によって与えられます。つまり、評価するに足る人々が皆神の絶対性を信じる限りにおいて神は絶対的な存在でありえるわけです。

しかしながら、20世紀の後半になりますと、西欧キリスト教文明以外の文明も無視しえず、多文化並存の相対主義を採らざるを得ません。こうなりますと、あらゆる文化はフィクションであり、社会制度や人々の目標とするものも虚構、ということになります。

そこで誕生したポストモダン思想は、普遍的コミュニケーションに対する絶望感から、小集団に依存した社会モデルを提示するにとどまっております。

しかしその一方で、ポストモダンの思想家の絶望をわき目に、科学、技術、経済、産業は文化を超えて拡大しており、ジャパニーズクールは日本以外の文化圏でも受け入れられております。このような広がりが可能であるのは、これらが普遍妥当性に照らしても価値を有しており、文化を異にする人々の間に普遍的コミュニケーションが可能であるからに他なりません。

虚構の時代の次に来るべきもの

1970年までが人々のはるか上方にある理想を追い求めた時代であり、大阪万博のあのまがまがしいモニュメント群に幕を開けます1970年以降が眼前の虚構を追い求めた時代である、というところまでは大澤氏の主張するとおりでしょう。

しかし、その後、1995年以降は、おそらくその虚構の下にありますメカニズム、原理原則を追求する「普遍妥当性」を追い求めるべき時代となるのではないか、と私は考えております。

虚構が虚構であることが誰の目にも明らかになってしまいました以上、社会の安定を取り戻すためには、信じるに足る基礎を構築しなおす必要があります。信じるに足るもの、すなわち真理とは、普遍妥当性に支えられた概念であり、普遍妥当な概念の上にすべての社会制度を再構築する必要があります。

その一つの鍵は、公正な競争に支えられた市場であり、もう一つは統計解析などの定量的把握手法、つまりは科学です。そもそも学問というものは本来的に普遍妥当性に基づくべきものでありました。

同書には「ギョーカイ」という言葉が出ておりますが、ギョーカイは単にマスメディアの世界にとどまるものではありません。ある種の利益共同体は、それ自体がコミュニティとして今日の社会のあらゆる分野に拡大しております。

コミュニティとしての利益共同体は、そのメンバーを限定する情緒的結合体であり、非合理的な慣習の元に運営がなされます。この種のコミュニティは、趣味や文化芸術の世界や、大きな組織の末端部分においては、人々の精神健全化に有意義な存在であると考えられております。

しかしながら、それが社会全体の運営や、公的予算の配分をも左右するようになりますと、これらの利益共同体は、社会の寄生虫的存在という、反社会的な存在となります。

学問、研究の世界であっても、それが生活の糧を得るための一つの職業である以上、利益共同体的性格を持つことはやむをえないことであるともいえるでしょう。しかし研究の内容が、ギョーカイの利益に左右されるようなことがあってはなりません。

小泉氏は「自民党をぶっ壊す」と語り多くの人々の共感を得たのですが、今の日本において破壊されるべきは、自民党にとどまらず、今日の日本社会の隅々にまで巣食うギョーカイであると私は考えております。

結局のところ、有象無象のギョーカイこそが、公正な市場を阻害し合理的な判断を妨げ、今日の日本社会を崖っぷちにまで追い込んだ真犯人であり、これらを排除し、普遍妥当の原則の元に社会制度を再構築することが、今の日本の喫緊の課題である、と私は考えております。

ちょっとおかしな「リスク社会再論」

問題となりますのは、IV リスク社会再論でして、この部分だけ読むといろいろと誤解を与えかねない内容となっております。

まず、「リスク」という用語は経営学の用語でして、「リスクマネージメント」という経営学の一分野もあります。

経営学においてリスクという概念が重要である理由は、「経営の本質はリスクをテイクすることである」などといわれますように、経営とリスクは切っても切り離せない関係にあるからです。

この場合のリスクの定義は、大澤氏の表現と同様、「それが現実となる可能性はきわめて低いが、ひとたび現実となった場合に、経営に甚大な影響を与える要因」という意味です。

リスクには、経営内部要因と外部要因があり、経営内部要因といたしましては放漫経営などの経営者の問題、欠陥商品の販売や不適切な投機に失敗するなどの経営管理上の問題、あるいは製品開発に失敗してライバルにしてやられる、操業や設計のミスで生産に甚大な支障をきたすなど、企業内部に原因があるさまざまな危険要因があります。これらは経営管理をしっかりすることである程度は避けることができます。

一方、経営外部要因として、為替の変動、景気の変動、テロ、戦争、政変などの社会的要因によるものと、地震、火災、風水害、犯罪などの偶発的災害があります。

経営学的にリスクを扱う場合は、これらを一括してリスクとして扱います。で、これへの対処として、「回避」「転嫁」「軽減」「テイク」の4通りがあると一般的にはいわれております。

まず「回避」というのは文字通りリスクを避けることであり、投資をしない、というのが究極の判断ということになります。もちろんこれでは儲けることもできないのですが、リスクは発生いたしません。その投資が自社にとって壊滅的なリスクを含んでおり、これが発生する確率が無視できない場合は「回避」が正解となります。

「転嫁」は、リスクを他者に負ってもらうこと。典型的には保険を掛けることです。ただし、保険でカバーできるリスクは火災など限られたものであり、かつ、保険会社が利益を得るからには、確率的には損となります。しかしたとえば、本社工場に火災が発生したら企業の存続に壊滅的な打撃を受けるような場合には、本社工場に火災保険を掛ける「転嫁」は正解となるでしょう。

「軽減」とは、リスクが現実化した際の自社の損失を少なくするもので、投資を小規模にする、他社と共同出資した新会社に新規事業分野に進出させる、などがこの例にあたります。もちろんリスクを軽減すれば、その分だけ自社の利益も減少いたします。しかし、100%出資した場合のリスクに自社が耐えられないのであれば、これを「軽減」するのが正解です。

「テイク」とは、文字通りそのリスクを自社が負うことです。これが正解となります条件は、そのリスクが現実化する可能性が極めて低く、無視しうるレベルである場合か、仮に具現化したところで自社の経営資源でカバーできる見通しがある場合です。

あえて高いリスクをテイクするのが「ベンチャー」というビジネス形態でして、この場合は、失敗も計算のうちでして、最悪の場合も出資金額を失うだけで再起可能な形としておきます。

地球温暖化というリスクとあるべき対応

さて、「不可能の時代」で論じております「リスク」とこれに対する取り組みは、経営学で言うリスクとは少々趣をことにしております。たとえばp132、地球温暖化というリスクに対する対応として、以下のように述べます。

>このままでは地球が温暖化するのだとすれば、われわれは、二酸化炭素の排出量を大幅に下げなくてはならない。だが、逆に、温暖化は全くの杞憂なのかもしれない。その場合には、われわれは今のまま、石油を使用し続けてもかまわない。確率論が示唆する選択肢は、両者の中間を採って、中途半端に石油の使用量を減らすことだが(被害の大きさと生起確率が互いを相殺するような効果をもつので「期待値」が中間的な値をとるから)、それこそもっとも愚かな選択肢である。もし温暖化するのだとすれば、その程度の制限では効果がないし、また温暖化しないのだとすれば、何のために石油の使用を我慢しているのか分からない。結果が分からなくても、結果に関して明白な確信をもつことができなくても、われわれは、両極のいずれかを選択しなくてはならないのである。

これは本当でしょうか? 一般的にはこのような両極端の間に最適解がある、というのが経営学的な結論であり、上の引用部でも、「確率論が示唆する選択肢」として中間に最適解があると示されております。その次の文脈ではこれを否定するのですが、根拠が明白ではありません。

この確率的結論は、たとえば書店で万引き被害を防止するために、監視カメラを設置し、ガードマンを雇う、という状況を考えれば容易に理解できます。たいした万引き被害もないのに大金を掛けて万引き防止策をとるのは愚かなことですが、ミラーを設置する程度のわずかな費用で万引きが大幅に減るのなら、それはやるべき対策です。

ざっくり言えば、万引きをゼロにしようとすれば経費はどんどんかさむため、万引きの被害額と、万引き防止に掛けた費用が等しくなるあたりにベストの万引き防止策があります。

さて、では地球温暖化の場合はどうでしょうか。確かに、それが杞憂なのか、人類に壊滅的な打撃を与えるのか、と問われれば、これに正確に答えられる人は誰もいないでしょう。しかし、そのリスクが現在指摘されていることは事実であり、これに全く科学的根拠がないか、といえばそうでもありません。

地球温暖化は何の根拠もない虚偽であるのか、あるいはそのリスクは事実であって人類に壊滅的打撃をもたらすのか、という両極端に二分できるものでもありません。なにぶん、これを断言できる人はいないわけであって、われわれは、この双方の可能性を確率的に考えるしかありません。

地球温暖化により人類が壊滅的な打撃を受ける可能性がゼロでない以上、この確率を下げることには大いなる意味があります。そしてこの確率は、多少なりとも二酸化炭素排出量を減らせばそれだけ減少すると期待されるわけで、無駄な灯りのスイッチをこまめに切るような行為も、人類の生存確率を多少なりとも高めるのに貢献しているといえるのですね。

これに関しては、どちらが事実であるのかなどと、絶対的権威者に判断してもらう必要などありません。人々は、つねに、未来を不確実性の中にみているのであって、これを律するのは確率でしかありません。でも、その確率を、自分たちにとって少しでも良いことが起こり易いように多少なりとも変えていくことができるのですね。それが人間の自由な判断、というものではないでしょうか?

いずれにせよ、地球温暖化が人類に壊滅的な打撃を与えるとすれば、それは、二酸化炭素の濃度があるレベルを超えた場合であると考えられます。そのレベルがどこにあるのか、誰にもわからないのではありますが、排出量を下げることは、人類に壊滅的打撃を与えるレベルがどこにあるとしても、それなりに有意義なことではあります。

もちろん、そうすれば絶対安全、などということはいえないのですが、やらないよりははるかにましなのですね。少なくとも、そうした努力を「愚か」などと言ってもらいたくはない、というのが私の偽らざる気持ちです。

と、いうわけで、省エネ努力を冷笑するかのごとき大澤氏の記述にカチンときて書いてしまいました。このあたりは、この先もう少し丁寧に論じる必要があると思います。本日は平日で、あまり時間もとれないことから、中途半端な書き込みとなったことをお詫びいたします。