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森政稔著「変貌する民主主義」を読む(その2)

森政稔氏の「変貌する民主主義」のご紹介を続けます。

第3章 ナショナリズム、ポピュリズムと民主主義:ポピュリズムという用語は意味のはっきりしない用語であるとして、この用語の歴史的な変遷を著者は議論いたします。そして、これらの過去のポピュリズムとはまったく異なるものとして現代のポピュリズムはあるといたします。

そうなりますと、せっかく歴史を回顧した意味があまりないということになりまして、それでは現代のポピュリズムとは何か、という点が改めて問われることになるのですが、著者は2005年の郵政選挙について以下のように述べます。

小泉の新自由主義的政策は、経済的に豊かな層にとっては、投資機会を増大させるなど、利益をもたらすことが期待されてもおかしくない。しかし、若年の低所得者層は、それらの政策によって、何らかの利益を享受するとは考えにくい人々である。郵政民営化なども、このような有権者の利益に結びつくとは考えにくい。起業ブームは、実際のところ、失敗に終わるケースがほとんどであったにもかかわらず、そのまれな成功例である「ヒルズ族」のようなIT長者たちへの若者の同一化、英雄視が生じ、小泉政権はこの人気を利用した。

若年層の怒りは、新自由主義のもとでの彼らの貧困とは直接関係のない、公務員や地方の支配層などに向けられることになった。

文脈から読み取られます著者の主張は、この小泉氏の選挙に臨む姿勢がポピュリズムであるということなのでしょう。しかし、何故にそのようなことがいえるのかという理由が今ひとつはっきりいたしません。

郵政選挙で小泉自民党が地すべり的大勝利を収めたのは、単なるムード的な要因ではなく、小泉氏の政策に対し、明確に国民の支持が示されたものと私は理解しております。

この時点で小泉氏が新自由主義的政策を強く主張した背景には、膨れ上がった公債残高があり、その背景には既得権益を守ろうとする官民の利益団体が存在したことを忘れてはいけません。それが道路族であり、郵政族であったわけです。

もう一つの問題は、マイクロソフトやグーグルなどの新しい産業が経済の底上げをしている米国に対し、わが国には新しい産業が近年生まれていないという問題があり、これを可能とするために規制緩和を掲げた、という事実もあります。

この二つの問題は、実は根を一つにしておりまして、既存の利益共同体(ギョーカイ、官僚、族議員)が自らの利益を維持するため、新規参入や新しい技術環境への適応といった変化を嫌い、これに対する抵抗が成功を収めていた、という背景がありました。小泉氏が「ぶっ壊す」といったのは、自民党だけを指してのことではなく、このような旧態依然とした利益共同体により身動きが取れなくなっていたわが国のシステムをぶっ壊す、という意味を込めてであったと私は理解しております。

上の引用部での森氏の記述は、これらの背景に一切の言及がなく、特に若年層の投票行為が役人を叩くことでの憂さ晴らしのような、きわめて浅薄な行為であるかのごとき表現がなされているのは、少々問題であるように思われます。

なにぶん、膨れ上がる公債残高は、特に若年層に返済の義務を押し付けるわけですし、新しい起業機会の増大は、成功の確率はともかくとして、若年層に希望を与えるものでした。これらに対して明確に方針を打ち出した小泉氏を、特に若年層が支持したことは、別に不思議な現象ではないように私には思われます。逆に、この視点が森氏の分析から欠け落ちていることには、少々奇異な印象を受ける次第です。

わが国の財政の問題は、当時のマスコミでも多々報道されており、最近になってこれが忘れ去られているかにみえることがむしろ奇妙なことです。財政改革に対する国内の関心が薄れたかにみえる一方で、諸外国のこの問題に対する意識は依然として高いままであり、これがわが国の信用を落としていることは厳然たる事実です。

小泉氏引退以後の、安倍、福田政権の人気低迷ぶりは、実は、小泉改革が正しく継承されていないと国民が理解しているためではなかろうか、と私は考えております。実は民主党も、安倍、福田両氏に比べて小泉路線からさらに遠ざかっており、次回の総選挙が果たして民主党有利かどうかは、未だ判然としないというのが私の考えです。

自民党にとりまして、勝利の鍵は小泉路線の継承をいかにアピールできるかにかかっており、福田氏では難しいといたしましても、仮に麻生政権が誕生して、強力なリーダーシップのもとに財政再建を進めることを強くアピールできれば、再度自民党が地すべり的勝利を収めることもありえないことではなかろう、と考えております。

第4章 誰による、誰のための民主主義?:この章で著者はまず、民主主義は、市民の主体性を前提としており、市民の「徳」が前提となると述べます。自己の利益だけを考える民主主義は成立しにくい、と著者は強調いたします。これは、最初に出てまいりましたハイエクの「個別的利益が民主主義的決定に入り込むのを遮断する」との要請にもあい通じるところです。

さらに著者は、社会(企業やその他の組織)のガヴァナンス(自己統治)が揺らいでおり、新自由主義を覆す必要も生じてくるのではないか、として本論を終えております。ただ、ハイエクのいう民主主義への制約がきちんと課されれば、この問題は回避されるように私には思われ、これは運用の問題であるように思われます。

さて、以上が同書の内容(補論を除く)ですが、同書への批判はすでに書いてしまいましたので、今日の民主主義を危機的状況に追い込んでいる原因について、私なりに考えていることを以下に記しておきましょう。

まず、民主主義の主体は、国民なり市民であり、自然人が主体であることが大前提です。しかしながら今日の政治には、自然人よりも企業が圧倒的に強い影響を与えております。これは、民主主義の大前提を覆すものであって、企業の企業による企業のための政治は民主主義であるとはいえません。

実は、森氏がこれを強く否定できない理由もなんとなく見えてくるのでして、これまでのわが国の民主主義と称するものも、実のところでは、さまざまな利益団体が政治を動かしていたわけであり、本質は何一つ変わっているわけではありません。

ただ一つの違いは、今日政治に対する影響力を強めております企業は、自らが稼いでいる企業であるのに対し、旧来の利益団体は公費支出の割り当てを狙う、官民一体となった利益共同体であったという点です。

公債残高が限界にまで膨張いたしますと、無駄な公費支出をこれ以上続けるわけにもいかず、古い利益共同体は解体の危機に瀕します。これに代わって経済を活性化させるものとして、自らの力で市場から利益を稼ぎ出す企業の活動に期待がかかるわけで、これらの企業活動を活性化させることが政治の一つの目的となります。

もちろんこれら企業といたしましても、企業活動に支障となる規制の撤廃を望むわけで、その利害の一致が新保守主義を生み出している、といえるでしょう。

しかしながら、そうであったところで、企業が政治を動かすのは本末転倒であり、あくまで主権は自然人になければなりません。この弊害が強く現れているのは、共和党政権下の米国であり、石油産業や穀物メジャーがブッシュ政権の深部にまで入り込み、政治を動かしているのはよく知られたところです。

残念なことは、市場に立脚した企業活動は国際競争に晒されており、米国が企業よりの政策を打ち出した場合、わが国が企業に不利な政策をとりますと本邦企業は国際競争に負け、日本経済を弱体化させます。

企業の利益と市民の利益は、一致する面も多々あるのですが、雇用や労働運動に対する政策の分野では、相互の利害は必ずしも一致せず、このような分野まで企業の主張が政治を動かすようになりますと少々問題であるといわざるを得ません。

ここは、企業と政治とのかかわりに関して、何らかの国際的な取り決めが必要な局面であり、わが国のリベラルな政治学者はこのような面でこそ大いに活躍していただきたいものだと強く思う次第です。

財政が制度に大きな影響を与えることは、森氏も第2章で「このような政策は、経済の拡大によって国民全体の利益が増大し、政府がこのような少数者の生活の向上のために支出できる税収が十分にあることを条件として成り立つものであった。このような好条件が失われたあとでは、政府への幻滅ばかりが増幅され、またエスニック集団間などの反目が激化して、政治統合はさらにむずかしくなった」と述べられておられます。

現在の日本が抱える最大の政治課題が財政の問題であり、特に残高がすでに700兆円を超えております公債をいかにして償却していくかが最大の課題です。この問題を棚上げにして近視眼的な国民の諸要求に応える主張をする政治家こそが、ポピュリズムとして非難されるべき政治家なのであって、国民がとうの昔にその正体を見破っていることも先の衆院選で示されたとおりです。

増えつづける公債を放置した場合に生じる問題は、以前のこのブログで議論いたしましたように、ハイパーインフレであり、このとき最大の被害者となるのは社会的弱者です。

政府自らが国民に対して「自己責任」などという言葉を口にするようになりました現在は、ある意味で異常事態であるともいえるでしょう。こうなりますと国民は、日本政府の信用自体を自己責任で判断せざるを得ません。

目先の利く人間はこのようなリスクを意識しておりまして、日本のインフレで大きく価値を損ねる貯蓄や円建て債以外での資金運用を真剣に検討しております。富裕層にとりましては、わが国の信用が毀損したところで、運用次第で資産を増やす道もあります。

1980年から90年にかけてのわが国のバブルとその崩壊の際にも、中流以下の国民が損失を出す一方で、富裕層は逆に資産を増やしていたとの証券会社の報告もありました。これは市場取引というものを考えればあたりまえの話であり、相場が大きく上下したときは、誰かが損をしたのと同じだけ、別の誰かが儲けることになります。

今日では、バブルの頃とは異なり、富裕層以外にも自らの資産を守る手立ては提供されております。市井の個人にも経済変動への対処ができる環境となりましたことは大変に心強いのですが、具体的にとるべき行為を判断をするために必要な経済知識に関しては、少々心もとないように思われます。

実は、この面でネットの果たすべき役割も大きいのではなかろうかと私は考えておりまして、本ブログにもその片鱗を認めていただけるのではなかろうかと思うのですが、これにつきましては本日のテーマから外れてしまいますので、別の機会に議論したいと思います。

さて、わが国のリベラル勢力が真に弱者を守ろうとするなら、日本そのものの信用力を高める施策こそ、まさに最優先の課題であるはずです。同じことが、政権政党にとりましても最大の課題であることはいうまでもありません。

日本政府の信用はかなり低そうだと、内外を問わず多くの人が考えているのが今日の偽らざる現状です。わが国の失われた信用をいかに回復するかということは、保守・革新の別を問わない、今日のわが国の政治全体に課せられた、大きな課題であるということを忘れてはいけません。