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中島義道著「カントの読み方」を読む

本日は、中島義道氏の書かれた「カントの読み方」を読むことといたします。

ちくま新書のこの一冊は、本年9月10日の出版と、非常に新しいものでして、カントの解説書にしては非常にわかりやすい書物となっております。つまり、カントの本がいかにわかりにくいか、ということが懇切丁寧に解説されている、なかなかに面白い内容の書物となっております。

中島氏の書物ではこのブログでも以前哲学者というならず者がいる」を取り上げたこともあるのですが、今回はその御専門のカントを真正面から取り上げております。

カントにつきましては、本ブログでも何度かご紹介いたしました。

#1633 カントの「プロレゴーメナ(序説)」を読む
#2264 カントの「いかにして純粋自然学は可能か」
#2290 カントの哲学と、その限界?
#2304 石川文康著「カント入門」を読む
#2305 石川文康著「カント入門」を読む(続き)
#2310 カント入門、補足(「単純なもの」をめぐって)
#2312 カント入門-補足2:空間と時間とヒトの意識

もちろん、過去のブログのなかでもお断りいたしましたように、私はカントをすべて読んでいるわけでもなく、完全に理解しているなどとは到底申せません。ただ、私が世界を理解するうえで、カントが書きました言葉がいろいろなヒントを与えてくれるであろうと考えて読んでいる次第です。

中島氏の「カントの読み方」を読みますと、こういうやり方も無理はない様子で、そもそも普通の人間がカントを理解しようなどというのがとんでもない心得違い、ということになります。

と、いうわけで、本日は同書を読んでいくことにしようと思います。もちろん、これを読みましたところで、カントが完全に理解できるわけもなく、多少は情報量が増えたかな、という程度にとどまるであろうことはあらかじめお断りしておきます。

さて、内容にまいりましょう。同書の出だし、プロローグ―カントはなぜ難しいのか?で、中島氏は次のように述べます。

カントは、なぜかくも難しいのでしょうか? そして、それにもかかわらず読まれつづけているのでしょうか? 驚くべきことに、岩波文庫の『純粋理性批判』(上)は50刷を超えています。しかし、それを読んだ人の大部分はわかっていないのではないか? その日本語たるやすさまじいものなのですから。並みの悪文というレベルではない。まったくの祝詞ないしお経なのです。

ごたごた言うより、カントの原文をまず一つ引用してみましょう。

実際〔純粋統覚の〕持続的な「私」は、この「私」がわれわれのあらゆる表象を意識しうるかぎりにおいてのみ、これらあらゆる表象の相関者である……

これは、当時のドイツ人にとってもわかりにくい書物であり、これを翻訳した日本語版もさっぱりわからない、というわけですね。そこで、あたかも暗号書を解読するごとく、中島氏の解釈が行われます。

本日は、細かなところは中島氏の著作にあたっていただくことといたしまして、ここでは重要と思われる部分のみをご紹介いたします。

まず、最も重要なポイントは「私の実在」ではなかろうかと思われます。この問題に真正面から取り組んだのがデカルトでして、「我思うゆえに我あり」という言葉を残したのですが、先日のブログでご紹介いたしましたように、これは三段論法による証明にはなっておらず、自己の実在は証明不能であるように思われるのですね。

これに対して、カントは「自己の実在性は現実の経験から導き出されなければならない」としており、先日述べましたように、思考に際しては、自己はあらかじめ存在しているものとして与えられる、前提と考えてよいように思われます。

つまり、私は存在するか、という問いかけ自体が意味のない問いかけであり、そういう意味では、デカルトの言葉も「省察」に書かれております“ego sum, ego existo”「我あり、我存す」の方が“ego cogito, ergo sum”「我思うゆえに我あり」などよりも適切な言葉であるようにも思われる次第です。

実際問題として、何かを考える以上は自分自身の存在は前提であり、これを本やブログに書く以上は、自らと同じような思考能力を持つ他者の存在もまた前提となっている、とせざるをえません。そうでないなら、こうした行為は意味のない行為であり、考えるだけ無駄、ということになります。

さて、カントは「ドイツ観念論」とは異なる、と強く主張しております。バークリーの観念論は、同書には紹介されていないのですが、「知覚されたものが実在する」としておりますが、カントは「もの自体が実在する」としております。ただ、カントも「もの自体」は自らの外部にあるものであり、人が物について考えるときは、自らの内部に構成された姿である「表象」やこれに貼り付けられました「概念」が思考の対象となる、としております。

問題は「客観」という概念でして、中島氏はこれを経験される世界(=外界)に重ねるような書き方をしているのですが、この部分は、本ブログの記事「カントの『いかにして純粋自然学は可能か』」で引用いたしましたプロレゴーメナの以下の記述に従って解釈すべきであるように私には思われます。

経験的な判断は、客観的妥当性をもつかぎりにおいて、経験判断である。しかし、ただ主観的に妥当するだけなら、そういう経験的な判断を私は単なる知覚判断と名づける。後者はいかなる純粋悟性概念も必要とせず、思考する主体における知覚の論理的結合を必要とするだけである。ところが前者は感性的直観の表象に加えて、特殊な、悟性において根源的に生み出される概念をつねに要求し、そしてまさにこの概念が経験的判断が客観的に妥当するようにしているのである。

すべてのわれわれの判断は、まず単なる知覚判断である。つまりそれらはわれわれに対してのみ、すなわちわれわれの主観に対してのみ妥当する。そして、後になってはじめてそれらの判断にわれわれは新たな関係、すなわち客観への関係を与えて、いつでもわれわれに対して、まただれに対してでも妥当するようになるように求める。というのは、判断が対象と一致する場合には、その同じ対象についてのすべての判断はまた相互に一致しなければならず、そのようにして経験判断の客観的妥当性が意味するのは、その必然的な普遍妥当性にほかならないからである。

すなわち、ここでは「客観的」という言葉の概念に「対象:外界の実在、もの自体に対応する概念」と、他者を含めた「普遍性妥当性」との二つの要件を求めております。

私が思うには、この二つの概念は分離して考えるべきであり、そもそも真実の礎を普遍妥当性に置くなら、自分自身はもちろんとして、さらにこれに他者を加えた社会的に受け入れられるという条件こそが「客観妥当性」の要件となるはずです。

一方、普遍妥当性が成り立つ背景には、人々が同じもの自体を意識の対象としているからであって、正常な知覚と精神を持つ人は、同じもの自体から同じような表象を形成し、同じような概念(意識されたもの自体)を作り出しているからに他なりません。

中島氏は“Subjekt”を「主語(主体)」という意味と「主観」という意味の二通りあることに注意すべきであるということを最初の章で述べているのですが、“Objekt”という言葉についても「目的語(対象)」という意味と「客観(普遍妥当性に通じる)」という意味の二通りあることに注意すべきではないか、と私は思うのですね。

このお話がややこしい点は、実は、外界の実在という意味での客観世界の知識体系が人の精神内部に構成されているのと同時に、人々が常識と考えている普遍妥当の知識体系もまた人の精神内部に構成されており、その一部は重なり合っているという点があげられます。

例えば、地理的な情報は、人々に共有された普遍妥当の知識体系の一部であると同時に、これに従って人が移動すれば、その情報に従った外界を感じ取ることができます。

しかし、この二つの知識体系は必ずしも一致するものではなく、数学的な知識であるとか、法律であるとか、物理法則であるとか、歴史であるとかは、人は外界の実在として知覚することはありえず、普遍妥当の知識体系として理解するしかありません。

一方、個人的な知覚情報(自分自身が見ている光景など)は、外界にかかわる知識体系を構成するのですが、普遍妥当性を有するものではありません。もちろん、他人がこれを見れば同じように感じ取るであろうと自分が考えている、という意味では、普遍妥当性を有するに値する知識にもなり得ます。しかし、現実には、これらの多くは、個人的な範囲にとどまっており、妥当性も十分に吟味されているとはいえないのですね。

カントは、どうもこの二つを同じように(というよりも「普遍妥当性」を重視して)扱っているように見受けられます。これに対し、中島氏は「だれにでも」という「普遍性」の部分には比重をおかずに、「意識されたもの自体」を重視して扱っているとの印象を受けました。

いずれにいたしましても、「客観」概念はカント哲学の一つの問題であるように私には思われます。この混同に終止符を打ち、「客観」を外界の実在から切り離して「普遍妥当」の世界へと結びつけたのがフッサールの現象学であった、というのが私の理解です。

とはいえ、現象学にいたしましても、外界を(否定こそしないものの)考慮の対象から外してしまったのは少々問題です。意識されたもの自体の世界普遍(だれにとっても)妥当の世界という、この二つの世界を、明確に区別されたものとして、ともに扱う哲学こそが今日要求されているのであろう、と私は感じております。

中島氏の師でありました大森正蔵氏の「脳産教理批判」も、以前のブログで議論いたしましたように、実はそういうことを言いたかったのではなかろうか、と私は思う次第です。