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養老孟司著「唯脳論」再読(その2)

さて、私が以前から疑問に思っておりますことといたしまして、主体を捨象して成り立っていたはずの自然科学が、量子力学においては観察者が顔を出す、という問題があります。

もっとも人口に膾炙しているのは「シュレディンガーの猫の実験」でして、不確定性理論の支配する偶然(放射性物質がガイガーカウンタを鳴らすかどうか)により猫の生死が確率50%で決まる実験を行った場合、猫の生死が観測される以前の猫の状態はどうなるか、という問題です。

この問題に対する解答として今日もっとも物理学者の支持を集めていると思われますのは「猫は生死重なり合った状態にある」とするコペンハーゲン解釈でして、猫を観測した瞬間に猫の状態は生死いずれかに収縮するといたします。

この「収縮」とは量子力学における「波束の収縮」と同じ概念で、例えば、原子から放出された光子は、放出される方向は不確定性原理により定まらず、光子の波動関数は原子の位置を起点として全宇宙に向かって光速で拡大する球殻状に分布いたします。そして、ある点で光子を検出したとき、光子の存在確率はその一点に収縮する、とされております。

これを宇宙全体に対して適用することも可能であるとする考え方もありまして、ビッグバンの当初はすべてが量子力学的擾乱の中にあったわけですから、宇宙のあらゆる物質は全宇宙のすべての方向に拡大する波動関数であったとみなされます。そして、何かが観測されるごとに、これに含まれる粒子の存在確率が各々の観測点に収縮する、というわけです。

これは、以前のこのブログでご紹介いたしましたホイーラーの人間原理でして、「記録されるまで現象はない」、「宇宙は人間によって観測されるのを待っていた」ということになります。

さすがにここまでいくとどこかおかしい、とするのが今日の自然科学の間でも共通認識なのですが、ひとたび自然科学の対象とする世界に主体を入れてしまうと、このようなおかしな結論に至ってしまうという問題があります。

しかし、この問題に対する養老氏の考え方は、私には少々奇妙であるように思われます。すなわち、同書には以下の記載がなされております。

量子力学まで来れば、その「客観的真理」(ニュートン力学)が成立しないことはもうわかっている。そこでは、ものごとは「量子的」つまり微分不能になり、最後には、不確定性原理として観測者が顔を出す。観測者とは何者か。それは脳である。

同じ脳が、時空の相対性の問題についても、やはり顔を出したことは、大抵の人が知っている。物理学に唯脳論を持ち込んだのは私ではない。アインシュタインであり、ハイゼンベルクである。脳は物理学に「出るべくして出た」のである。

今では物理学的な宇宙論に脳、つまり観測者が顔を出すのは当たり前になってしまった。それは物理学が健全になった証拠である。

ここで、養老氏がこのような結論を出す理由は、「量子力学以前は宇宙のすべてがニュートン力学という物理法則に従うと考えられていたが、量子力学と相対論の登場でこの考えが否定された」点をもって健全になった、と考えておられるのでしょう。

しかし、量子力学の観測問題において、例えばシュレディンガーの猫を観測する者は、第三者ではなく測定を行う科学者自身であるとされております。ここでは養老氏排除すべきであると主張する「自分の脳」が介在してしまっております。

さらに今日の物理学者は、ニュートンの時代よりもはるかに、人類はこの世界を支配する物理法則を詳しく知っている、と考えております。

「等身大以上の思想」であることをもってニュートン力学を非難するのであれば、今日の「場の量子論」など「巨大すぎて手に負えない思想」とみなさざるをえないのではないでしょうか。

なにぶん、ワインバーグの「場の量子論(1巻)」によりますと、粒子は「ヒルベルト空間中の射線(Ray)」であるとされておりまして、ヒルベルト空間は内積が定義された複素ベクトル空間である、というのですね。

これが現実の世界であると物理学者は主張するのですが、こういう世界は物理学者の精神内部に構成された世界ではなかろうか、と普通の人なら考えるのではなかろうか、と私は思うわけです。

ニュートン力学が否定されてなにやらわけのわからない世界になってしまったことを「健全」と称するのであればこれは少々浅薄に過ぎる考え方であり、「物理学はますます不健全な方向に進んでいる」とするのが本来の養老氏流の言い方であってしかるるべきはなかろうか、と思う次第です。

と、いうわけで、哲学者のいう「世界」と自然科学者のいう「世界」につきまして長々と論じてまいりましたが、結局のところこの二つは立場の違いであり、どちらが間違っているともいえない、とするべきでしょう。

ただし、自然科学の世界に主体を含めてはならず、主体を含めるなら哲学者の世界として論じなければならない、という点だけは忘れてはいけません。

では、「観測者」が介在する量子力学は自然科学者の世界として扱い得ないのか、という点が問題となりそうですが、「知りえないことは語りえない」という縛りを加えることで観測者を世界の外部に排除することができます。

わかりやすくいえば、「シュレディンガーの猫の生死は観測しなければわからず、観測される前の猫が生死いずれかであるかを科学は語ることができない」という、当たり前のことを言えばいいだけの話であって、「猫は生死が重なり合った状態である」などというわけのわからないことをいう必要は全然ないと思うわけです。

ちなみに、いわゆる波束の収縮とシュレディンガーの猫の生死確定は異なる問題であるように私には思われます。たとえば、二つのスリットを通過する電子線の干渉を考える場合、いずれかのスリットに電子が通過したことを検出する手段を設けますと干渉は生じなくなります。これは、検出手段が電子に影響を与えその時点で波束の収縮が生じるためであり、検出結果を人が観測するか否かとは関係のない話です。

結局のところ、シュレディンガーの猫の実験において、放射性物質から放出された放射線という波束は、これがガイガーカウンターを鳴らした瞬間に収縮しており、それ以後の猫の生死が不明であるのは、単にこの実験を行っている者が知らないだけの話なのですね。

まさに、「汝己の知らざることを知るべし」です。(この言葉は、多分ソクラテスが言いたかった言葉だと思うのですが、今のところ、この言葉の書かれた書物は見出しておりません。どこかにありますでしょうか?)

と、いうわけで、以前のこのブログでもご紹介いたしましたように、自然科学にはいくつかの縛りを設ける必要があるはずで、私は次の三つの原理を満足する必要があるのではなかろうか、と考えている次第です。

第一原理:知りえないことを科学は語りえない
第二原理:主体に関する概念を科学は扱えない
第三原理:時間は虚数的に振舞う

ま、第三原理につきましては、今回のお話とは別になるのですが、これにも長い長いお話がありまして、いずれはこのブログでもじっくりと議論したいと思います。

さて、実を言いますと、「唯脳論」の面白いところは脳の形態学的知見から精神活動のあり方を説明するという点でして、養老氏の努力の大部分もこの点に向けられております。これを紹介せずに、心身二元論の部分のみに注目して同書を語るのは、少々後ろめたい気がすることは事実です。

とはいいましても、このブログが私の興味の赴くところに重点を置いて書かれるのもまた当然の道理です。幸い、文庫本で出ておりますこともあります。養老氏の主張に御興味のある方は原書にあたっていただくのが一番かと思います。文庫版にも、不気味な図版の数々は収録されております。この点にだけは、あらかじめ御注意ください。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。