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時間とは:大森荘蔵著「時間と存在」を読む

本日は、大森荘蔵氏の「時間と存在」から、第1章「線形時間の制作と点時刻」を読むことといたしましょう。

同書の内容

さして長い論文でもないのですが、まずは内容をご紹介いたします。

1.持続存在のときめき、時間と存在
ものが実在するということは、ある時間的長さにわたって存在することである、といたします。
2.未来―現在―過去の骨格時間
現在・過去・未来という時間概念は時間的経験の中から生じるものであり、時間順序は「人間の意識的経験において」生まれるといたします。
3.過去、現在、未来の生成
「今最中」という時間経験の意味を現在に与えることにより、その前後として過去と未来が生成され、線形時間が生まれるといたします。
4.時間の計量と時刻付け
まず、太陽時計により時刻付けが行われます。
5.歴史と科学による仕上げ
時間軸を過去と未来の方向に無限に延長することで科学の要求にこたえる時間概念(線形時間)が完成します。
6.点時刻の病理
特定の瞬間を追及すれば長さがゼロの「点時刻」という概念にたどり着きます。しかし、点時刻において運動というものは考えられず、ゼノンの「飛ぶ矢は静止している」というパラドックスに到達します。

ここで大森氏はかなり長い文章を使って議論を深めますが、これに関しては後ほど議論することといたします。

7.時の流れと点時刻
点時刻が時間軸の上を動くという描写は矛盾を引き起こす可能性がある旨を説いて、大森氏はこの短い議論を終えます。

点時刻の無理

さて、以下、私の考えを述べたいと思います。

まず、ゼノンのパラドックスですが、運動という概念についてよく考えてみれば、最初からこの論理には無理があることがわかります。

つまり、「静止している」という意味は、時間が経過しても位置が変化しない、という意味であり、「動いている」ないし「飛んでいる」という意味は時間の経過とともにその位置を変える、という意味です。従いまして、時間の経過という概念を含まない一瞬だけを取り出してしまうと、そこには運動という概念はありえず、静止しているとも動いているとも言うことはできません。

物理的には、物体の運動に対応いたします速度(v)は、ある時間間隔(Δt)に対する位置の変化量(Δx)の比として [v = Δx/Δt] という形で与えられます。ある時刻における瞬間速度というのは、その時刻の近傍で Δt を限りなくゼロに近づけた極限として定義されるのですが、Δt をゼロに等しくすることはできません。なにぶん、分母がゼロでは割り算ができませんから。

この事情は図形的(幾何学的)にも理解することができるのでして、円や放物線など、接線の引ける滑らかな曲線であっても、その曲線上の一点だけを残して他の部分を消し去ってしまったら、その点に接線を引くことはできません。点の接線などというものは定義されておらず、無理やり線を引かせればその点を通る直線を任意の方向に引くことになるでしょう。

大森氏は「点時刻」という概念を取り出すと種々の不都合が生じることを示し、それでも今日の科学が不都合を生じない理由は「現代科学は幸いにも点時刻概念の働きをそれと気付かないで遮断してきたことによって不都合を免れてきた」と考えます。

すなわち、科学は軌道や関数という時間的に連続した形で運動を表現し、更には測定に際してもある程度の時間幅が必要であるからだ、といたします。これは確かにそのとおりでしょう。これに付け加えるなら、点時刻という概念を、限りなく(ないしは適度に)ゼロに近づいた、しかし大きさのある幅を持つ時間として考えているからであって、そうであるから微分もでき、測定もできるという事情があるのでしょう。

さらには、大森氏が指摘するような概念上の問題もありますが、それ以外に、幅がゼロの時刻というものを想定いたしますとその点におけるエネルギーが無限大の不確定性を持ち、物理法則は意味を失ってしまいます。実際問題といたしまして、点時刻という概念は、単なる想定上の概念であって、物理的には幾何学の点ほどの意味をも持たないように思われます。

4元時空

さて、時間についてはこのブログでも多少議論してきたのですが、この機会に簡単にまとめておきましょう。

まず、自然科学が対象といたします世界において、時間は空間の3つの方向(座標軸)とともに4元時空を構成するひとつの方向(座標軸)であると考えられております。これは、アインシュタインの特殊相対性理論の結論であり、これを記述するための4元時空の数学的な取り扱い手法をミンコフスキーが確立いたしますと、アインシュタインはこれを用いてさらに理論を発展させ、最終的に重力理論であります一般相対性理論に到達いたしました。

これは余談ですが、運動している物体の長さが縮むとか時計が遅れるとかいった、今日相対性理論を語る際に必ず出てまいります効果は、実はアインシュタインの功績に帰せられるべきではなく、ローレンツとポアンカレの功績とすべき部分です。アインシュタインは、これらの効果がエーテルの伸び縮みではなく空間そのものの性質であるとした点で評価されるべきであり、空間軸に時間軸を加えた4元時空の幾何学を確立したミンコフスキーの功績もまた大であるとせざるを得ません。

さて、4元時空とはいったいいかなるものか、といいますと、これは単純にいえば時間を座標軸のひとつとして追加した空間(時空)である、ということになります。

時空という概念自体は、われわれの日常生活でもよく目にするものでして、時間に対してさまざまな量をプロットしたグラフがまさに時間軸を含めて表現したものです。たとえば鉄道のダイアグラムなどは、時刻と空間的位置を二次元平面上に表現したもの、ということができます。

時間の経過を作り出すもの

時間軸を座標軸に取り出した世界は、それ自体には動きがありません。しかし、たとえば鉄道のダイアグラムであれば、その軌跡を時間方向に追っていけば鉄道の動きを見出すことができます。動き、ないし時間の経過という概念は、これを観測する人間の意識が作り出したものにほかなりません。

これを現在ただいまの世界に当てはめて考えるのはちょっと難しいのですが、過去について考えることはさほど難しくはないでしょう。たとえば日常の光景をビデオで撮影することを考えればよいわけです。

ひとたび光景を媒体に固定してしまえば、時間軸も媒体の中に封じ込まれます。こうすれば好きな時刻の光景が動きとともに取り出せますし、逆方向に再生することも、早回しで再生することも可能です。

この例では、媒体に固定された映像自体には変化がないのですが、各時点での映像を人間が順次観るが故に動きが見出されます。4元時空における動きは、これを観測する人の意識が作り出すものであるということができます。

ちょっとずれたたとえ話をいたしますと、列車の窓から見える光景は恐ろしいスピードで変化しているのですが、これは光景自体が変化しているのではなく、眺めているわれわれの位置が変化し、この結果見えている光景が時々刻々と変化しているためです。もちろんこの場合には光景自体にも多少の変化はあるのでしょうが、変化の大部分は、これを観測している意識が動いているが故に生じたものなのですね。

現在ただいまの意識は時間方向に移動しております。動きとは無縁の4元時空の世界ではあるのですが、次々と異なる3次元空間が意識の前に現れる結果、世界は動いて見えます。このメカニズムは、ビデオや映画を鑑賞する際に動きを見出すメカニズムとさほど異なるものではありません。

4元時空は動きとは無縁であるといいましても、これを観測する人間に世界がどのように見えるかということは科学の基本であり、この意味で4元速度は重要な概念です。これをはじめて聞かされた人はびっくりすると思うのですが、実は、4元時空における物体の速度は、その物体上に固定された意識にとっては時間軸に相当し、これを物理学者は「速度とは局所時間である」といいます。

意識の時間軸方向の移動速度は、ちょっと変な言い方ではありますが、時速1時間に相当いたします。時間方向の移動速度は、速度を4元時空で考える際に必要になるもので、空間的には静止している観測者といえども時間軸方向の大きさ1(時速1時間 = 1)の4元速度をもつ、ということができます。

移動している物体は空間的な速度も持っております。これと時間的速度(時速1時間)を合わせたものが移動している物体の4元速度ということになるのですが、速度の絶対値(大きさ)はこれを観測する座標系にかかわらず一定であり、そのために静止ているわれわれから見るとそれぞれの座標成分の大きさが微妙に変化いたします。これが、特殊相対性理論の奇妙な効果、すなわち、運動している物体の長さが縮んだり時計が遅れたりする効果となるわけです。

2017.3.4追記:この効果は、鉛直に立てられた棒を傾けると鉛直軸に沿って計測した高さが減少することと、何ら異なりません。時間軸は虚数的に振る舞いますので、時間方向の長さは、傾くことによって縮むのではなく、伸びる方向に変化し、その結果、空間的な速度を持つ座標系における時間は、静止座標系からみるとゆっくり経過しているように見える、というわけです。

四元速度と局所時間

運動している物体上にとられた座標系の原点の位置は、静止座標系からみれば時間の経過とともに異なった空間位置をとります。原点の軌跡は時間軸ですから、運動している物体上にとられた座標系の時間軸は、静止座標系とは異なる方向を向いている、ということになります。

運動している物体の位置とはその上にとられた座標系の原点の位置であり、これを静止している観測者からみればその速度は、時間成分のほかに、ゼロでない大きさの空間成分も持っております。一方、移動している物体上にとられた座標系からみれば空間的な速度はゼロであり、単に時間的な速度のみがあります。

両者は同じ運動を異なる座標系上の観測者が評価しております。そして、同じ移動物体の運動(4元速度ベクトル)を、静止している観測者は移動物体の空間的速度と認識し、移動座標系上の観測者は時間軸方向の単位ベクトル、すなわち空間的には静止し時間のみが経過している(局所時間)と感じることとなります。

ここで注意すべき点は、時間の流れを感じるのはあくまで人の意識であるということであり、速度について議論する場合は観測者の視点がどこに固定されているか、ということと合わせて議論しなくてはならない点です。それどころか、4元時空のどの方向が時間軸であるのかということすらも、観測者の視点によって変わってしまう、という点にも御注意ください。

空間座標の方向、例えば前後、左右、上下がどちらを向いているかは人の姿勢次第なのですが、時間軸についても同じことが言えます。つまり、観測者の速度次第となります。

速度や時間の流れを議論する際には、観測者は停止していると考えるのが簡単であり、この場合、観測者の感じる4元速度は時間軸方向の長さ1のベクトルとなります。

静止している観測者が移動している物体を観測すれば、その速度ベクトルの空間成分もゼロではないと認識するのですが、その移動物体上の観測者は、空間成分がなく、時間方向のみに大きさを持つ長さ1のベクトルとして自らの運動を認識している、ということを理解してやらねばなりません。

なるほど確かにこれは相対性原理であり、ガリレオの相対性原理から一歩進んだ、時間軸を含む座標系の回転という概念を含む相対性原理です。アインシュタインの功績に帰せられますのは、まさにこの相対性理論であるといえます。

特殊相対性理論とミンコフスキー

特殊相対性理論が誕生した際の物理学上の大問題は、いかなる運動している座標系においても光の速度は一定であるという事実であり、これを説明するためにローレンツ、ポアンカレらの研究が進んでおりました。

アインシュタインは光速一定の原理から座標系の変換法則を導きました。互いに等速直線運動する座標系の間では、数式上はローレンツ変換と呼ばれる式に従って、時間軸と空間軸が回転変換されることを説明いたしました。この空間の幾何学を扱う手法を提案したのがミンコフスキーでした。

4元時空を扱うには、3つの空間座標x1、x2、x3に加え、時間軸に相当する x0 を追加すればよいのですが、これに時刻 t をそのまま入れるわけにはいきません。これでは光速不変の要請を満足することができません。

ここで、ミンコフスキーはなんと、x0 = i c t とせよというのですね。i は虚数単位で、二乗すると-1になります。c は光速で、時間の単位を長さの単位にあわせるために時間に光速を掛け合わせるのは妥当なところです。

自然界に虚数を持ち込むというのは非常に奇妙な話ではあるのですが、こうすることで移動している物体上への座標変換は、ローレンツ変換という複雑な式ではなく、空間的な回転と同じ式で扱うことができます。

この考え方は当初は広く受け入れられ、アインシュタインはこれを用いて一般相対性理論(アインシュタインの重力理論)を打ち立てます。また、若き日のパウリの著「相対性理論(上)(下)」もこの考え方に基づいて書かれております。

忘れられたミンコフスキー

しかしながらその後、なぜか x0 = i c t という関係式は物理学の世界から抹消されてしまいました。

もちろん、数学は約束事ですから、虚数を使わなくても計算をすることができます。たとえば、ディラックの「一般相対性理論」はテンソル表記に特別な規約を設けることで虚数が現れることを避けておりますし、「ファインマン物理学(4)増補版」は「ローレンツ変換に対して不変であること」を方程式を立てる際に要請することでこの問題を避けております。

しかし、ところどころに虚数といいたい部分が現れてくることは避けられません。典型的には二乗すると負になる数が現れてしまいます。

例えばファインマンは、4元時空内の2点間の距離の二乗が負になった場合も、「虚数とは呼ばないで」などと断り書きを入れ、距離の二乗が負であれば空間的に離れている、正であれば時間的に離れていると考えよと書いております。しかし、これは非常に奇妙な物言いであると思います。(時間が虚数的に振舞うとする代わりに空間が虚数的に振舞うとしても物理的意味は同じです。ファインマンの扱いは、空間を虚数として扱っていることに対応します。)

二乗すると負になる数をわれわれが虚数と呼んでいる事実は否定のしようがありません。4元時空内の2点間の距離についても、これが虚数なら時間的に離れており、これが実数なら空間的に離れているとするのが、もっとも簡潔明瞭な判定基準です。なにぶん、時間を虚数として扱っているのですから。

しかしなぜか、時間を虚数的に取り扱うという流儀は、一般的ではなくなってしまいました。

なぜこのようなことになってしまったか、私には大変不思議に思われるのですが、ひとつの可能性として「ミンコフスキー」というロシア風の名前が嫌われたためではなかろうか、という疑念を私はひそかに抱いております。

相対論、量子論という物理学の急速な発展と並行して、人類は冷戦という不幸な時代に突入いたしました。この時代の鍵を握りましたのが核兵器という最新の物理学の産物でした。その基礎理論を語る際にロシア風の名前が付きまとうことは、西側の科学者に不吉と思われたとしても不思議ではありません。そこで、なんのかのと理屈をつけて時間軸と虚数との関連を葬り去った、というのが私の憶測です。

この理屈のひとつは「自然界には虚数など存在しない」というものでして、確かに「虚」という文字や“imaginary”という英語表記からは、虚数は単なる想像上の存在であり自然界には存在しないのだ、とする主張も多少の説得力を持ちます。

しかし、数は、言葉と同様、人が考え出したものであり、自然現象を記述するための概念的存在です。だから、自然現象を簡潔に表すために虚数なり虚数の演算規則なりが有効であるなら、これを用いることを忌避する理由はありません。

4元時空内での座標変換に、ローレンツ変換のあの複雑な式を用いることと、時間軸に虚数を導入することの、どちらが簡潔に自然を叙述しているかと言われれば、素直に考えれば後者を選ぶしかないでしょう。

そもそも、座標系に虚数を使用することを拒みながら、量子力学の公式にはあれほど虚数を多用する理由が全くわかりません。量子力学もまた現実の世界を記述する理論であり、これに虚数を使用してかまわないなら、座標系に虚数を使うことにもなんの問題はないはずです。

量子力学における虚数の消失

さて、その量子力学なのですが、実は、量子力学の公式の多くに現れます虚数単位は時間を虚数とすることによって見事に消失する、という事実があります。もちろん、虚数は式の形式上からは消滅いたしますが、時間軸に虚数が入っておりますので、虚数の効果はそのまま残っております。

以前のブログでも議論したのですが、この具体例を改めて述べることといたしましょう。

まず、シュレディンガーの波動方程式を普通の形で書きますと次のようになります。

(1)    i h'(∂Ψ/∂t) = -(h'2 / 2 m) (∂2Ψ/∂x2) + V(x) Ψ

h'はプランク定数を2πで割り返した値を表します。普通はhに斜線を入れて表示するのですが、適当なフォントが見当たりませんので、h'で代用いたします。

この式に出てまいりますΨが波動関数と呼ばれるもので、さしあたりこれを求めるのが「波動方程式を解く」こととなります。左辺は波動関数の1次の時間微分にプランク定数と虚数単位を掛けたもの、右辺は、波動関数の空間の2次微分にプランク定数の二乗を掛けて質量で割ったものと、場所ごとに定義されているポテンシャル V(x) と波動関数の積の和、となっております。

この式は空間的に1次元の場合を示したものですが、3次元空間の場合は、右辺の空間の2次微分をそれぞれの方向で行って和を取る形となります。

波動関数の一つの解は次式で与えられます。ここで exp(x) は ex の意味です。

(2)    Ψ(x, t) = exp(i (px - E t) / h')

さて、次に、時間は虚数的に振舞う、と考えた場合、どのようなことになるでしょうか。

ミンコフスキーの座標系に変換するためには、x0 = i c t より、t を x0/ic に置き換えます。これは -i/c を乗じることと同じです。速度および運動量には時間の逆数を含みますので、i c を乗じることでミンコフスキーの座標系に変換されます。

この置き換えを行いますと(2)式は次の形に変形されます。ここで、p0 はエネルギーを質量 m として与えたものです(E = m c2 の関係を利用して)。

(3)    Ψ(x) = exp(-(px) c / h')

px は、時間が虚数的に振舞うという前提で書き下した4元ベクトルに相当します。(3)式の驚くべきところは、式の上には虚数単位 [i] が現れてまいりません。

指数部分は、空間成分と時間成分を別々に乗じて差を取っていたものが一つの内積に書き下されます。これは空間項に含まれる運動量が時間の逆数の次元を持つのに対し、時間項には時間の次元が乗じられているため符号が反転してくれるからです。

もちろんこの部分は、ファインマンのように、「4元ベクトルの内積に際して時間項と空間項は符号を反転する」という規約を設ければ同じように一つの内積で書き下すことができるのですが、符号を反転する理由をいちいち説明しなくてはならないという弱点があります。

ちなみにその理由はファインマンによりますと「ローレンツ変換に対して式を不変に保つため」なのですが、それは「時間が虚数的に振舞う」というのと同じことを複雑に述べているだけのように、私には思われます。

次にシュレディンガーの(非相対論的)波動方程式は、といいますと、左辺の分母に時間が入っておりますことから左辺に ic を乗じることとなります。右辺は時間とは関係ありませんのでそのままです。そういたしますと、左辺の虚数単位が消えまして、次のような形となります。

(4)     -ch' (∂Ψ/∂x0) = -(h'2 / 2 m) (∂2Ψ/∂x12) + V(x) Ψ

これまた驚くべきことに、式の上からは虚数単位が消えてしまいました。さて、これを一体どう解釈すれば良いのでしょうか。

この事実から予見されるひとつの結論は「量子力学の公式に虚数単位が現れる理由は時間が虚数的に振舞うことによる」というものです。もしこれが本当であるとすれば、量子力学のあの常識に反するような現象の数々も、その多くは時間の虚数的な振舞いから説明できるのかもしれません。

今日の学問研究は職業のひとつであり、新たな知識を探求すべき科学者といえど確立された学問体系から逸脱することは困難であるという事情はよくわかります。しかし誰か一人ぐらい、この「竜退治*」のような研究に取り組んでもよいのではないでしょうか。(* ニーチェ「悲劇の誕生」より)

そんな思いから「時間は虚数的に振舞う」という一項目を、科学が従うべきの原理のひとつ(第三原理)として、私はあえて取り上げている次第です。

ちなみに第一原理は「知りえないことを科学は語りえない」、第二原理は「主体に関する概念を科学は扱えない」でして、特に第一原理は時間とのかかわりにおきましても重要であると思います。

つまり、4元時空が動きのない世界であるということは、未来もまた定まっていると考えるしかないのですが、われわれは未来を知りえませんので、科学は未来について語ることができません。

結局、4元時空がどうであろうとも、われわれは未来を不確定であるとして行動せざるをえない、というわけです。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。最新のまとめ「虚数時間とファインマン氏の憂鬱」も、ぜひどうぞ。