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岩田靖夫著「いま哲学とはなにか」を読む

本日は、岩田靖夫著「いま哲学とはなにか」を読むことといたしましょう。

同書は昨年6月に岩波新書として出版された比較的新しいものです。この2年前に、小林康夫氏が同名の本(こちらは高い)を出されておりますが、これとはまったく別の書物ですので、お間違いのないようお気をつけください。

同書はギリシャ時代から第二次大戦後までの哲学者の思想を扱っているのですが、「いま」という言葉が書名にありますように、それぞれの思想の今日的意味を問い直している点に特徴があるといえるでしょう。

さらにいえば、今日のこの混乱した思想状況の中で改めて過去の哲学者の考えをみていこう、と著者は考えているのでしょう。そういう著者の思いが同書の全体を一貫して流れておりますところに、これまでの教科書的哲学思想史とは一味違う書物となっております。

同書の内容は、「はじめに」の部分に著者が要領よくまとめております。この部分は、上記いたしました著者の思いが良く現れているように私には思われます。そこで、少々長いですが、この部分を以下に引用しておきましょう。

本書において、筆者が取り組んだのは、ソクラテスのこの問い(人はいかに生きるべきか)である。この問いは、発端である古代ギリシャ哲学においてどのように展開されたか。それを精神的基盤として継承しながら、不測の破局的様相を見せはじめている現代においては、どのように応えられるべきか。これが本書の問題である。

第I章「人はいかに生きるべきか」、第II章「人はいかなる共同体をつくるべきか」は、古代ギリシャ哲学におけるこの問いへの原型への応答である。第III章「究極根拠への問い」、第IV章「他者という謎」、終章「差別と戦争と復讐のかなたへ」は、この同じ問いの現代的形態に対する現代人としての筆者の応答である。これらの応答のすべてにわたり、人間のあらゆる営みの根底となる人生の意味への哲学的・宗教的根拠が織り込まれている。

これらの全ての問いに対して、筆者は哲学者として、現有のすべての力を投入した。

こうまで書かれてしまいますと、同書を安易にご紹介することははばかられます。そこで、同書の内容につきましては現物(定価735円)をご参照いただくことといたしまして、以下は私がおもしろいと感じた点と、同書のアプローチの限界に付きまして議論することにしたいと思います。

まず、哲学は真理の学であるのですが、その「真理」とは何かということが最も基本的な点でしょう。

真理につきましては以前のブログでも議論したのですが、「普遍妥当性」を満たすこと、つまりすべての人に受け入れられる言説が真理である、とするべきであろうと考えております。

このような考えは、カントもポアンカレも述べておりますし、フッサールの間主観性に基づく客観の再定義にもあてはまります。また、デカルトの書にもこれに近い記述が見受けられます。

アリストテレスはデモクラシーの基礎を「エンドクサ(多くの人の是認する考え)」におきます。エンドクサに依拠することで何ゆえに正しい判断が行われるかといえば、同書によりますと次のようになります。

多くの凡人大衆は、一人一人を見れば、みな、思慮の足りない、衝動的な、欲望的な、要するに、不完全な人間である。しかし、おぼろげには、僅かに、善を知っている。だから、多くの人々が集まって是認した考えは、一つ一つは僅かでも、多くの耳、多くの目、多くの思慮が集まって、一つの巨大な思慮となったかのように働くのだ。それは、哲人王という一人の倫理的超エリートの判断よりも、優れており、安定しているだろう(政治学1282A16-17)

これは、政治的な決定にかかわる議論ですが、普遍妥当性と同様な考え方であるともいえます。

アリストテレスは、人の幸福は「アレテーに即した生命の活動」であるといたします。人は欲望という非理性的部分と理性を持っており、理性が非理性的部分をコントロールできてはじめて人は幸福になれるのだといたします。

この「アレテー」という言葉は、「倫理徳」という意味合いが強いのですが、本来の意味は「卓越性」であり、人はその得意なことをして人生を送るのが幸福な生き方である、という意味もあるのですね。

「アレテーに即して」とはまた良い言葉ではあります。会社の受付に掲げておきたい言葉ですね。これをギリシャ語で書いておきますと、来客の中にはその意味を問う人もいるでしょう。これに受付嬢が上に書いた趣旨を説明いたしますと、会社のイメージアップになりますこと請け合いです。

第III章、究極根拠への問いもなかなかおもしろいところです。

アリストテレスは「形相」と「質料」が存在の基本であるとし、これを著者は次のように説明いたします。

この形相-質料構造が、あらゆる存在者に共通の最も普遍的な存在構造という意味で、存在である。これを、現代風に言えば、あらゆる存在者は構造と素材からなっている、ということである。構造とは、形であり、その形の表す秩序であり、法則であり、機能であり、働きである。構造は極大から極小に至るまであらゆる段階で語られうるであろう。他方素材はその形を受容する材料である。この素材もまたあらゆる段階で語られうるであろう。

これはおもしろい着想ですね。これを私流に表現すれば、質料とはエネルギー(質量!)であり、形相とは情報です。「自然科学はエネルギーにかかわる情報を扱う学である」ということもできそうで、泡箱に現れた高エネルギー粒子の飛跡を分析するなどという行為は、まさにこれに他なりません。

このような外界の事物を存在の基本であるとする考え方に対し、デカルトの懐疑論とこれを受け継ぎましたカントは、考える我、すなわち主観に基づく哲学を展開いたします。

ここで、同書は、デカルト-カント-ハイデガーのラインを押し出してまいりまして、そのままレヴィナスの他者論へと進んでまいります。ここで、著者も「難解」と語っておりますレヴィナスに突入いたしますと、何がなんだかわからなくなってしまうように私には思われます。

もちろん、今日のこの混乱した思想状況の根が人々の間の対立にあるといたしますと、他者の問題は避けて通れないということもできるでしょう。しかし私はむしろ、カント哲学の一部を切り捨てたところ(プラグマティズム)に問題の根があるのではないか、と考えておりまして、ここはカントの哲学を掘り下げていただきたかったところです。

プラグマティズムといいますか、今日の世界一般を支配しております思想の問題点は、大きく次の二つに集約されると思います。

第一に、人は理性・論理のみで生きるものではない、という点であり、倫理が論理の枠外であるという点を認識しなければいけません。このブログでこれまでに述べておりますように、論理を超えて成り立つとされるカントの定言命法は、ヴィトゲンシュタインの論理哲学にも合致しますし、脳科学で明らかとなっております理性的活動と倫理的判断には脳の異なる領域が使用されているという事実とも附合いたします。

さらには、人の精神活動のうち意識に上がってくるのはごく一部であり、多くは無意識のうちに思考されております。そしてこの思考のあり方は、人が生まれ育った環境に大いに影響を受けているのですね。これら論理で語れない人間本来の部分をどのように扱うかが第一の今日的な課題であると、わたしは考えております。

第二に、素朴な実在論と、主観を優先するデカルト-カントの実在論の調和を図らなくてはなりません。

脳科学を持ち出すまでもなく、われわれが何かを考えるのは自らの脳の作用であり、眼前の実在(たとえばりんご)について語る際も、自らの脳の中に構成された眼前の実在について語っていることは否定できません(カントの実在論)。

しかし、人は自らの脳の中に構成された外界の像を外界そのものとみなしており、眼前の実在を眼前の実在として語っていると考えます(素朴な実在論)。

この二つのあい矛盾する考え方は、いずれもあたり前の考え方であるともいえるだけに、両者の間には乗り越えがたい断絶があります。たとえば、以前のブログでご紹介いたしましたシュレディンガーのカントに対する反発は、非常に根が深いものがあります。

この対立を乗り越えるためには、何が情報を固定し、何が情報を処理しているか、という観点から世界というものを改めて考え直すべきであろう、とわたしは考えております。具体的には、次の三つの世界を考える必要があろうと思います。

第一には、自然界の事物が情報を固定しこれを処理している(姿形を変えている)という事実であり、これを世界Rと呼ぶことといたします。これは、自然の営みと表現することもできるでしょう。

第二には、個人の脳が情報を固定し処理していることも事実であり、これを世界Cと呼びます。これは、脳の内部の情報処理であると同時に、主観の世界でもあるといえます。

第三には、社会が情報を固定し処理しているという事実で、これを世界Sと呼ぶことといたします。世界Sは、常識、文化、学問の世界であり、普遍妥当性は世界Sを形作る基礎となっております。

ひとつ言葉の混乱を招きがちなのは、「客観」が世界Rと世界Sのいずれを指すかという点であり、論者によっていずれの意味にも使用されております。

人が知ることができるのは世界Cだけなのですが、世界Cの中には世界Rと世界Sのイメージ(不完全な複製物)が存在し、人はこれを世界Rおよび世界Sとして認識しております。世界Sの中にも世界Rのイメージが存在いたします(自然科学の成果、地図や星図などなど)。

世界Cは世界Rの一部であり、世界Sの影響を強く受けて形成されます。世界Sは世界Rの一部であるとともに、世界Cをもつ人々の集合体として存在いたします。これらの世界は相互に影響を及ぼしつつ複雑な運動をしております。

このような複雑な世界構造があるにもかかわらず、近年の風潮は、素朴な実在論に基づき、人間本来持つ特性のうち理性以外の部分を切り捨てております。著者の言う「不測の破局的様相を見せはじめている現代」とは、まさにこの結果なのではなかろうか、というのが私の考えであり、この部分を掘り下げることこそが、「いま哲学」に求められているのではないかと考えている次第です。