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何かと話題の「奇跡のリンゴ」を読む


本日はまったくこのブログらしからぬ書物といたしまして、最近話題の石川拓治著「奇跡のリンゴ」を読むことといたしましょう。

以下、ネタばれ満載。同書をまだお読みでない方で、ご自分で読むまでは内容を知りたくない方、および同書のファンもしくは木村リンゴ愛好者の方は、以下を読まれないほうが幸せであると思います。

念のために改行を入れておきます。

 

 

 

 

 

 

まもなく本文が始まります。

 

 

 

 

 

 

まず内容をごく簡単にご紹介しておきましょう。

青森県のリンゴ農家の木村さんは奥さんが農薬に過敏な方であったことから、農薬を使用しないでリンゴを栽培しようと決意いたします。

これは、従来の(おそらくは今日でも)リンゴ栽培の常識に反することであり、事実、木村農園のリンゴは、まったく実を付けず、壊滅の危機にさらされます。

しかし、死ぬ気で入った山の中で、どんぐりの木が何ゆえに農薬も肥料もなしで生長しているかとの疑問を抱き、その土壌が農園のものとは異なることに気付きます。

山から降りた彼は、リンゴの木の下に大豆や雑草を生やして土壌改良に取り組みます。この結果、地中の細菌が活性化し、リンゴの木が本来もつ力が強まり、木村農園のリンゴの木はやがて花を咲かせ、実をつけるようになります。

こうしてできたリンゴはリンゴ本来の味がする非常においしいリンゴであったことから、飛ぶように売れるようになりました、というお話なのですが、こんなに簡単に要約してしまいますと、大変な苦労の末に成功された木村さんに怒られてしまいそうです。

同書のおもしろいところはディテールにあるのでして、ぜひ現物を手にとって読まれることをお勧めいたします。

ただ、一読して感動したあとには、少々へんこつなわたしゆえ、疑問点も多々生じてまいります。そこで以下では、顰蹙(炎上?)覚悟で、疑問点に突っ込みを入れていきたいと思います。(あ、炎上はお断り。義憤に駆られてコメントを付けようと思われた方には、もう一度、この記事を最初から再読されるよう、お願いいたします。)

同書を一読後のわたしの第一印象を述べますと、これ、高倉健主演で映画になりそうなお話です。場末のキャバレーにやくざまで出てまいりますし、リンゴの花が満開になりますところは、幸福の黄色いハンカチを髣髴させます。

もちろん、奇跡のリンゴは実話でして、映画と一緒にしてはいけないことは重々承知しているのですが、同書を書かれた石川氏がこの映画のラストシーンを意識して、多少脚色して書かれた可能性もあるのでは、という気もいたします。なにぶん、状況が似すぎておりますので。

このお話が映画になりそうであるとの印象を与えますもう一つの理由は、木村氏のこの行為が以前のブログでも解説いたしました「ディオニュソス的」行為であるからでして、まさにニーチェの言うところの「竜退治」の顛末が語られているからでしょう。

小利口な人ばかりが幅をきかすいまの世の中で、このような行為が行われたことに対しては、賞賛すべきことであるとわたしは思います。

ただ、馬鹿といわれるようなことをあえてやる人でなければ大きな仕事はできないのですが、馬鹿といわれれば良いというわけでもありません。木村氏の場合は、本を読んだり研究したりもしているわけで、成功する道もある程度は読んでことを進めていたように、わたしには思われます。

無農薬リンゴ栽培を開始するにあたっての木村氏の戦略と展望の部分は、同書にはほとんど書かれていないのですが、これが、あまり本を読まず勉強することも嫌いな多くの人への受けを狙ってのことであるといたしますと、これは少々いただけません。

何も考えずにこういうことをしているような記述をいたしますと、周囲の迷惑を顧みず、ただただ無謀な行為に走ることを奨励していると解釈されることにもなりかねず、その部分だけを真似する人が出てきても困るのではなかろうか、と余計な心配をしてしまいます。馬鹿と世間からは呼ばれるけど、ちゃんと考えている人と、世間にも馬鹿と呼ばれる本物の馬鹿は、きちんと区別しなくてはいけないのですね。

さて、経営学的に、このやり方はどうでしょうか。

まず第一に、「高級品狙い」を志向するなら、このやり方は大成功を収めたといえるでしょう。いまの世の中、高級品はそれなりの市場がありますし、手間隙かけて作ったリンゴでも、それが特別においしければ、金に糸目を付けずにこれを買い求める人もいるでしょう。

しかし、同書の記述を読む限り、木村氏の志向しているところは、高級品志向ではなく、これを通常のリンゴ栽培にも広げ、一般化することであるように見受けられます。

確かに、農薬漬けのいまの農業は、食の安全性だとか、作業者の健康被害、水質汚染や、野生の鳥類、昆虫、魚類の保護など、いろいろな意味で問題があるといえるでしょう。

しかし、人手や管理能力など、よほどの経営資源に恵まれていない以上、このやり方を一般の農家に普及させることは難しいのではなかろうかとわたしには思われます。この種のリンゴ栽培方法は、人手と管理能力の充分にある農家が高級品志向という意味合いを込めて実施する、という方向がまずは現実的ではないでしょうか。

感動的な書物を仕上げるには、一部の裕福な人を満足させるような、高級品志向という記述はできないのかもしれませんが、経営的にはこれが正解であるように、わたしには思われます。もちろん、高級品志向は決して間違っているわけではなく、むしろわが国の農業が高級志向の方向に舵を切ることは、当然の選択であると思います。

これを100%の美談にしようとすれば、その恩恵を受けるのを富裕層に限定するわけにもいかず、もしもそんなことを考えて記述に手加減を加えているといたしますと、経営的には疑問符だけが残る話になってしまいます。

もう一つの方向性といたしまして、石油の枯渇したあとの農業を考えた場合に、このような方法が重要になってくるのではないか、と同書は書きます。確かに肥料もやらずに食料が生産できるなら、これは未来を託すにたる技術であるといえるでしょう。しかし、ここまで考えるのであれば、まずは病害虫に強い品種の開発を指向すべきであるようにも、わたしには思われます。

もちろん、地中の細菌を利用して肥料も農薬もなしで農作物を育てるというやり方は、非常に良い着想であり、今日の世界でも大いに役立つ領域があるでしょう。なにぶん、現在の地球上には、農業を行うための肥料の入手に事欠く人々も多く、その代わり、というわけでもありませんが、労働力だけは不自由しない地域も多いわけですから。

たとえば、アフリカなどでは焼き畑農業が問題となっております。森林を焼いて畑とするその理由は、肥料が自動的に手に入るからです。こんなことをやっておりますと、作物を作って地中の養分がなくなった畑は、放置され、砂漠になってしまいます。こんなところには、豆類を蒔いて地中の細菌に養分を作らせるやり方というのは、非常に役に立つであろうし、熱帯雨林の保護や地球の砂漠化を食い止めることにもつながるのではないかと思います。

その他、木村農園で殺菌に「酢」を使用しておりますのは、どうかという気もいたします。酢は米から作られる食用品であり、確かに安全性という面ではベストではあるのですが、これを畑に撒くことに少々抵抗を感じるのはわたしだけではありますまい。

もちろん、資源も費用も省みない高級品指向であるなら、別に畑に酢を撒いたところで目くじらを立てる必要はありません。しかし、これを一般に普及させるべき技術として把握するのであれば、これは少々いただけないように、わたしには思われます。

酢に類似したものに、炭を焼く時に得られます「木酢」という薬品があります。これは多少の毒性はあるのですが、園芸用の消毒剤としてもよく利用されております。これなら食用でもありませんし、自然由来のものですから、比較的安心して使えるのではないかと思います。まあ、「無農薬」といえなくなってしまうかもしれませんが、、、

木酢に関して時々思いますことは、焚き火の煙にも木酢と同様の成分が含まれているであろうということでして、以前は落ち葉を集めたときや庭木の手入れをしたときに、焚き火をして処理していたのですが、これは病害虫の予防にも役立っていたのではなかろうか、と思うわけです。煙で燻す、というのも無農薬で病害虫を退治する一つの手段かもしれません。

そういえば、庭に椿を植えたとき、植木屋が椿の隣に楠の木を植えて「虫除け」といっておりました。椿には茶毒蛾という猛毒をもつ蛾が発生するのですが、楠の木は樟脳という殺虫成分を作るのですね。この葉を一緒に燃やしますと煙はさらに効果的。でもここまでやってしまいますと、無農薬という趣旨からはどんどん外れてしまいますね。

その他、同書には妙な点もいくつかあります。木村氏が宇宙人に出会ったという記述は、ユング心理学の解釈もなされており、まずは妥当な記述であるともいえるように思われますが、最後の部分で、木村氏が話しかけたリンゴの木は生き残り、話しかけなかったリンゴは枯れてしまった、という記述は少々いただけません。

これはもちろん、科学的な説明もできるはずで、話しかけるようなリンゴの木には、それなりに手もかけたはずで、木村氏が話しかけなかったリンゴの木は、最初からあきらめていたのかもしれません。しかし、そういうことを捨象して、何らかの超自然的な現象が起こっていたかのごとき記述は、同書全体の信憑性を著しく落とすものでもあるように思うのですね。

なにぶん、事実を超えた感動物語に仕立て上げたのではなかろうかと、疑えば疑える点も上述いたしましたように多々ありますし、上には書きませんでしたが、事実関係を問う疑問に対して、あらかじめ逃げを打っていると解釈できないでもない記述もみられる同書です。

これを、感動物語として読むことはいっこうに差し支えないと思いますし、そういう方々の邪魔をする気はまったくないのですが、わたしが読書をする際の常としております、厳しい批判精神をもって書物を読むなどということになりますと、同書は突っ込みどころ満載の本であるように、わたしには思われた次第です。