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「宇宙を織りなすもの(上)」を読む(その2)

水曜日のブログに、ブライアン・グリーン著で青木薫訳の「宇宙を織りなすもの(上)」の紹介記事をアップいたしましたが、本日は水曜日の記事で書き漏らした点につき議論したいと思います。

本書の最初の部分で、空間につきまして、ニュートンのバケツの思考実験を紹介しております。これは、水の入ったバケツをぐるぐると回すと、中の水もやがてバケツと同じように回転し、遠心力により水はバケツの外周部に押し付けられて中央部がくぼむ、というものです。

この実験でニュートンが言いたいことは、「絶対空間がある」ということでして、回転が遠心力を生み出すなら回転していない空間があるだろう、というものです。

ニュートンの絶対空間説に対して、マッハは全宇宙に対する相対運動が遠心力を作るという説を唱えます。ただマッハの説は、何故にそうなるのかという説明部分が欠けております。

アインシュタインの特殊相対性理論は、空間は相対的な存在であるが、4元時空は絶対的であるといたします。そして、著者は一般相対性理論も絶対時空を支持するとして、次のように記述いたします。

しかし一般相対性理論は、マッハの議論がすべて正しいと認めるわけではない。それを理解するために、もう一度、ほかには何もないからっぽの空間で回転しているバケツを考えてみよう。バケツ以外には、恒星も惑星も、その他どんな物体も存在しない宇宙では、バケツに作用する重力も存在しない。そして、重力がなければ時空は湾曲しない。……これはつまり、特殊相対性理論という特殊ケースに戻ったということだ。……

何も存在しないからからっぽの宇宙にバケツを持ち込んでも、バケツの質量は非常に小さいため、空間の形にはほとんど影響しない。したがって特殊相対性理論を扱ったところで論じたバケツの話は、一般相対性理論でも同じように成り立つのである。

原著“The Fabric of the Cosmos: Space, Time, and the Texture of Reality”では以下の通りです。この原文は、Google Booksから参照することもできます。

Nevertheless, general relativity does not confirm all of Mach's reasoning, as we can see directly by considering, once again, the spinning bucket in an otherwise empty universe. In an empty unchanging universe -- no stars, no planets, no anything at all -- there is no gravity. And without gravity, spacetime is not warped --......-- and that means we are back in the simpler setting of special relativity. (......)

If we now introduce the bucket into the empty universe, it has such a tiny mass that its presence hardly affects the shape of space at all. And so the discussion we had earlier for the bucket in special relativity applies equally well to general relativity.

これは、確かにそういうこともいえるのでしょう。しかし、回転している空間に遠心力が発生するという現象は、実は空間の湾曲としても説明できるのであって、そういう意味では、「質量がない空間が湾曲している場合、その座標系は回転している」、ということができます。

これに関しましては大昔のこのブログでも述べましたが、これを再録いたしますと、次のようになります。

われわれが二次元的存在で、回転する円盤の上にいたとします。これ以外の世界が見えないとしますと、回転しているということはわからず、ただ遠心力の存在のみを知ることになります。この場合は重力とは異なり、中心から遠ざかる方向に、中心からの距離と質量に比例する力が働く、という物理法則が存在するわけですね。

さて、この世界の半径と周長を測定いたします。その様を、外部から観測したとするとどのような現象が見られるでしょうか。

まず、直径の測定は、移動方向に直行しておりますので、正しく計測されます。しかし、円周の長さの測定は、外界から見ますと速度があるためにモノサシが縮み、周長は直径×円周率よりも、多少長く測定されるはずです。

この事実は、円盤上でも変わりませんので、やはり、周囲の長さは直径と円周率から期待される値よりも多少長い、ということになります。

このとき円盤上の人達はどのように考えるでしょうか。一つのありえる解釈は、この円盤、実は平らではないのではないか、ということですね。その歪の結果、遠心力が発生した、と考えれば、この円盤が回転しているという事実は、遠心力に関しては、無視できることになります。なぜ歪が発生したのか、という問題は依然残るのですが、、、

これが球面の一部ですと、円周の長さは直径と円周率から期待されるよりも短い値となります。一方、ポテトチップのような形、数学者が鞍形(馬の背に乗せる鞍の形)と呼ぶ形、であれば円周は期待値よりも長くなります。数学的には、前者の場合に曲率が正である、といい、後者の場合に曲率が負である、といいます。

なるほど、遠心力が作用している円盤は、負の曲率を持つ、というわけですね。

と、いうわけで、一般相対性理論は回転する座標系で遠心力の発生する原因を説明する理論であるともいえます。回転する座標系上では、他に基準がない場合にもその座標系上で観測される時空は負の曲率をもち、特定の点からの距離と質量に比例する力を感じることになります。

この力を感じることから、座標系が回転していることも検出できるわけで、その結果想定することができる静止座標系上で議論するならば、遠心力は単なる慣性力として理解できる、というわけなのですね。

同書の記述には間違いはないのですが、「一般相対性理論によれば、回転する座標系上での遠心力の発生も説明することができる」という一言を補っておくのが妥当であるように、私には思われました。

なお、同書p127には、時空を食パンにたとえて、観測者にとっての現在とは食パンをスライスした断面であるという説明を繰り返した後、「加速度運動をしている観測者がスライスする断面は、曲がっているのだ」との記述があります。

もちろんこれは、加速度運動する観測者に固定された座標系でこの空間を計量すると、空間は曲がっているとみなされるというわけであって、回転運動も加速度運動に他なりませんので、回転する座標系上の観測者にとりましても、同じように空間が曲がって観測されることはいうまでもありません。ここは、その双方への言及がほしいところでした。

もう一つの隔靴掻痒的な記述はエントロピーに関する部分です。

まず著者は、「戦争と平和」の本のページをばらばらにして、投げ飛ばしてから積み重ねると、これが正しい順序になる確率は極めて少ない、ということから、自然界は秩序正しい状態から乱雑な状態へと進む、と説明いたします。そして、乱雑さの程度をエントロピーというのだ、といたします。

しかし、自然界にとって、どういう状態が「秩序正しい」状態であるのか、などという決まりはありません。その点に注目しないと、「エントロピーは過去に向かっても増大する」という記述が何のことかわからなくなります。

そこで、これも以前のブログに書いたことなのですが、簡単な説明を追加しておきましょう。

まず、番号を書いた玉をいくつか(20個~100個程度)と、これを一列に並べる箱を準備いたします。

次に、さいころを振って、ランダムに二つの玉の位置を交換いたします。それぞれのステップでの玉の位置は、あとで同じ現象を繰り返すことができるよう、記録しておくことといたします。

これをある程度繰り返した後に、その時点を現在といたしまして、列の中央から左側の玉だけ赤く色を塗ることといたします。

この後も、ランダムに玉の位置を交換していきますと、徐々に赤と白の玉が混ざり合います。これが、エントロピー(乱雑さ)の増大である、ということができます。

次に、過去の記録に基づき、玉に色を塗った時点から、それ以前の玉の状態がどうなっていたかを、過去にさかのぼって再現いたします。そういたしますと、確かに、過去に向かっても、時間をさかのぼるにつれ赤と白の玉は徐々に混ざり合うこととなります。エントロピーは過去に向かっても増大するのですね。

もう一つは、自然現象は必ずしも乱雑さが増す方向に進む、と簡単にはいいがたい現象もあります。たとえば、空中を舞っている埃の位置はきわめて乱雑ですが、静かにしておけばすべて床に落ち、秩序正しい形となります

物理現象は、自由エネルギーの減少する方向に進みます。自由エネルギーとは、全エネルギーから〔温度×エントロピー〕を差し引いたものであり、温度が低い場合は、埃のもっている位置エネルギーを失う方向(つまり下に落ちる方向)に進み、温度が高い場合は乱雑さが増す方向(つまり空中を舞う方向)に進みます。

ボールを離すと下に落ちるのも、ボールの持っている自由エネルギーを失う方向に運動が起こるのであって、乱雑さが大きい方向に変化する、というわけではありません。

もちろん、結果として、すべてのエネルギーは熱に変わる方向に変化し、その結果として系全体の乱雑さは増すわけで、同書の記述が間違っているというわけではありません。しかし、この世の現象が、すべて乱雑さを増す方向に進むというわけはないことは、埃の例でもお分かりいただけると思います。

最後に、時空が固定されたものであるのか否かという問題と、波動関数の問題に関して、多少の議論をしておきましょう。

同書によれば、食パンをスライスする角度(=観測者の運動)によって同時性はいかようにもなるということから、現在、過去、未来の関係は観測次第であるといたします。このことから、4元時空とは固定されたものであるということを強く示唆いたします。

しかし、アインシュタイン(ミンコフスキー?)によりますと、4元時空のうち、過去はその情報を知りえる領域、未来は操作しうる領域、現在は、知ることもできず、操作することもできない領域、とされておりまして、光円錐の外部(光速で通信しても信号の送受信ができない部分)はすべて現在であるとしております。

同書は同時性の概念を外延し、絶対的な時間概念を持ち出して過去と未来の順序が入れ替わるという記述をしているのですが、これは、特殊相対性理論の一般的な議論とは少々異なるように私には思われます。

とはいえ、未来が固定されたものであるとする説は、受け入れざるを得ないと思います。これは、真理に時間に対する普遍性を要求する以上、認めざるを得ないのであって、明日の真理は今日においても真理でなければならないことから、未来は固定されているとせざるを得ません。

もちろん、それを人は知りえないわけで、未来について確定的に語ることはできない相談ではあります。

「知りえないことは語りえない」という原則は、自然科学全般に適用されるべき原則であると私は以前から主張しているのですが、そうであるから波動関数も意味を持つのだ、と私は考えております。

スリットを通った電子が干渉パターンを形成したとき、電子がどのスリットを通過したのかとの疑問は、これを知りえない以上意味を持ちません。そして、実験の結果は、電子の位置を波動関数で表し、これがあらゆる可能な経路を通過したとして計算されるパターンを示しております。

そうなりますと、電子が干渉パターンを形成する以前には、波動関数で表された位置に実際に電子がいたのか、という疑問が生じるのですが、この疑問も意味を持たない疑問であって「わかりません」と答えるしかありません。

では、波動関数とは実在の電子の挙動に対応したものではなく、計算のための道具であり、単なる人間精神による自然の叙述であるのか、との疑問が生じるわけですが、これはまさにそのとおりであると私は考えております。

自然界に物理法則があるわけではなく、すべての物理法則は、人が自然を理解する過程で人の精神が生み出したものであって、外界の自然に対応したものではあれ、自然界にあるものではありません。この問題につきましては、以前も議論いたしましたので、以下省略といたしましょう。(続き