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須藤靖著「主役はダーク」を読む

本日は久方ぶりに本を一冊読むことといたします。選びましたのは「主役はダーク」、宇宙物理学者須藤靖氏によります非常にくだけた語り口の天文学と量子力学の解説書でして、本年3月末の発行と非常に新しい書物でありますことが進歩の著しいこの分野の書物としては魅力的です。

同書の内容

内容といたしましては、この宇宙を構成する物質の大部分がダークマターダークエネルギーであって、普段我々が目にする普通の物質は宇宙全体の5%弱を占めるにすぎないこと。そしてそのダークマターとダークエネルギーがなんであるのか良くはわかっていない、ということです。ふうむ。よくわからないことが良くわかるようになったということですね。それはそれで一つの進歩ではあります。

同書のもう一つのテーマは量子力学でして、世界はクオーク、レプトン、ゲージ粒子の三種類からできていることを、初心者にも非常にわかりやすい文章で説明いたします。初心者にわかりやすい理由は、余計な難しい話が書かれていないからでして、大量にかかれている余計な話は与太話。まあ、はっきり言ってどうでもよいような、親父ギャグの同類であるように私には思えるのですが、これがありませんとスカスカの書物になってしまいます。ここは重要なポイントに注目して読むべきところでしょう。

今日の科学哲学の問題

さて、同書の内容につきましては同書をご参照いただくのが一番ですので、ここでは少々気になった点について書いておきましょう。

多くの物理学者は哲学者が嫌いでして、ファインマンはC.P.スノーの「二つの文化」を引いて哲学者の言うことは聞いても仕方がないといたしておりますが、須藤氏の同書にも科学哲学者を揶揄することばの数々が記述されております。

今日の科学哲学に関しましては、私も少々どうかと思うところがあります。科学哲学の基盤はヴィトゲンシュタインが確立した論理実証主義にあり、観測された事実と確かに真と考えられる命題からさまざまな命題を論理的に立証することを旨としております。ところが論理の一番の根底には他から演繹することが不可能な前提条件(公理、公準、原理、原則、法則などなどと呼ばれるもの。英語ではprinciple)が必要で、前提が正しいという確証が得られない以上、その上に得られたあらゆる結論は正しいかどうかわからない、という問題が生じます。

今日の英米思想の主流でありますプラグマティズムは実用性を重んじており、科学哲学の主流は「道具主義」に移行しているように私には思われます。つまり、正しいかどうかはわからないが、現にその理論が現象をよく説明しており、各種装置の設計に役に立つならばそれを真実としたら良いとの考え方が主流であるように見受けられます。これは物理学者にも受け入れられる考え方で、そうであるならば真実とされる原理がいずれ覆される可能性も否定できず、ポパーの言う「反証可能性」を原理・法則に対しても要求することはなんらおかしな話ではありません。

一方でわが国の科学哲学の潮流は、ポパーには冷淡です。たとえば以前ご紹介した戸田山和久氏の科学哲学の冒険では、ポパーの主張するよりもより高い信頼性を帰納法で得られた原理・法則に与えたいとしているのですが、これが絶対的な真実であるとはいえないことに変わりなく、ポパーの主張を否定する根拠はありません。

私の印象では、かつての論理実証主義の華々しい成功と、ヴィトゲンシュタインとポパーの対立の故、科学哲学の世界の人々は論理実証主義に近い考え方をとりがちで、ポパーから距離をとっているように思われます。しかしながら、真実を人が知りえないということは今日の哲学世界では半ば常識であり、そろそろ軌道修正が必要であるように思われます。

物理学における哲学の意義

さて、物理学といえども哲学を無視してよいというものでもなかろう、と私は考えております。たとえば量子力学の観測問題に対するコペンハーゲン解釈は、カント哲学を無視しては真に理解したとはいえないでしょう。

カントは、物自体を人は知りえず、人が知りえるのは人の精神内部に取り込まれた結果に過ぎない、といたします。これは脳科学をもち出すまでもなく当たり前の話なのですが、このような考え方は、主観こそ全てであるとする観念論に他ならないとの批判を受けます。これに対してカントの反論は、他者一般にも受け入れられる普遍妥当な認識は客観的な性質を持つ、だから科学は可能なのであるとしております。

普遍妥当性を真実の要件とする考え方は、後にフッサールにより、他者と共有された主観である「相互主観」の上に客観を再定義する形で明確化されております。このような形で定義された客観は、絶対的な真実であるとはいえず、いずれ否定される可能性を含む真実です。この意味での真実に基づく考え方は、上に書きました「道具主義」とさして変わるものではありません。

須藤靖氏は「物理法則は自然界にある」と考えておられますが、これは少々問題でして、物理法則は人間の精神が作り出したものであり、人間の精神の内部に存在いたします。波動関数は人間精神内部の存在であり、自然界に波動関数があるわけではありません。自然界に存在するのは、物理法則なり波動関数という表現形式で叙述可能なものであり、そのような認識を我々に生じさせる原因があるに過ぎません。

そう考えれば、コペンハーゲン解釈における波動関数の収縮もなんら不思議な現象ではなく、我々の精神内部で起こっている現象、つまりは、これまで波動関数という形でおぼろげに把握されていた電子の位置が、蛍光体を光らせるなどの形で、ある点に特定された、というだけの話に過ぎません。

物理学者たちの議論

量子力学の創成期には、多くの物理学者が哲学的な議論を(あまり十分とはいえない形ではありましたが)交わしておりました。たとえば、ハイゼンベルクの部分と全体を読みますと、彼はカント哲学を必死に学んでおります。これは、コペンハーゲン解釈がカント哲学を下敷きにしたとする、一つの傍証となるでしょう。また、以前のブログでご紹介いたしました宇宙を織りなすもの(上)にあります以下の記述も、この考え方を支持しております。

一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える。この立場によれば、測定を行うそのときまで、私たちは電子がどこにあるかを知らない。そして、電子の位置を知らないという事実が、さまざまな場所に存在する可能性として電子を記述する波動関数に表現されている。しかし、電子の位置を測定したとたん、電子の位置に関するわたしたちの知識は突如として変化する。

原著“The Fabric of the Cosmos: Space, Time, and the Texture of Reality”では以下の通りです。

One approach, with historical roots that go back to Heisenberg, is to abandon the view that wavefunctions are objective features of quantum reality and instead, view them merely as an embodiment of what we know about reality. Before we perform a measurement, we don't know where the electron is and, this view proposes, our ignorance of its location is reflected by the electron's wavefunction describing it as possibly being at a variety of different positions.

一方で、以前ご紹介いたしましたように、シュレディンガーはカント哲学をまったく受け入れません。これではシュレディンガーにはコペンハーゲン解釈が受け入れられるわけもなく、その結果が「シュレディンガーの猫」というパラドックスの提示となったのでしょう。

これに共感したのがアインシュタインでした(このあたりの事情はこちらのページをご参照ください)。私が思いますには、彼は全知全能の神を否定できなかったのではないでしょうか。カント哲学では、我々は神を知りえないといたします。そしてアインシュタインにとりまして検出不能な存在は、エーテルと同様に消し去らなければならない存在です。

また、量子力学の結論を前提とする以上、全知全能の神が存在するなら二重スリットを通過した電子は干渉したりはしない、なぜなら全知全能の神の存在はあらゆる場所に検出器が備えられていることを意味するから、などということを彼が考えていたのかもしれません。

神はサイコロを振り給わず、このよく知られたアインシュタインのことばは、軽い気持ちで発せられたことばなどではなく、アインシュタインが血を吐く思いで口にしたことばであったように、私には思われてなりません。アインシュタインは最後まで量子論を否定すべく努めるのですがついにその努力が実ることはありませんでした。彼がそうした理由が単なる科学的興味であったのか信仰故の行為であったのか今では知る由もありませんが、信仰故であった可能性が高いのではなかろうか、と私は考えております。

独我論の正当性

一方のシュレディンガーがどうしたかといいますと、最終的にはインドのヴェーダンタの哲学に向かい「梵我一如(宇宙=私である)」の境地を目指します。これは独我論の世界でして、科学の対極にあるようにも思われるのですが、実はヴィトゲンシュタインも「独我論は正しい」としておりまして(参考)、これは論理的に誤った議論ではありません。でも、独我論はカント哲学に非常に近い思想であり、シュレディンガーがなぜカント哲学を受け入れずに独我論に走ったのか、この点が私にとりましては大いなる謎であるわけです。

独我論が論理的に正しいことは認めざるを得ません。なにぶん私が考えていることは(客観的と考えていることも含めて)全て私の主観なのですから。しかしながら、それだけでは自然科学はおろか学問すべてが成り立ちません。ここは、さらに一歩進めて、共有された主観なり普遍妥当の上に客観を再定義する必要があります。

とはいえ、インド思想ではそんな問題はとっくに解決済みであったのかもしれません。なにぶん西洋におきましては主観(subject)は主語、客観(object)は目的語と同じことばで、客観は主体の外にあって観察・操作の対象とみなすのが(フッサール以前までの)伝統的理解なのですが、東洋におきましては最初から主の見方が主観であり客の見方が客観すなわち普遍妥当を意味しております。

西洋の賢哲が近代に至ってついに到達した結論が、東洋においては数千年前から当たり前の認識であったことは驚きです。ただし、シュレディンガーが客観概念をどのように理解していたかは、依然として謎ではあるのですが、、、