コンテンツへスキップ

「ハイゼンベルクの顕微鏡」を読む

前回のこのブログで量子力学の観測問題に触れましたが、今回はこれを真正面から扱っております、石井茂著「ハイゼンベルクの顕微鏡」を取り上げることといたしましょう。

最近小澤の不等式が実証されたとのニュースが伝えられました。これは、ハイゼンベルクの不確定性原理を修正するもので、ノーベル賞にも値するような大発見であるように私には思われるのですが、その小澤の不等式の解説を目的として書かれたのが同書です。前記ニュースは最近ですが同書の初版は2006年、先見の明があるともいえそうですが、理論の発表に接してひょっとしてノーベル賞などと早合点して書かれた書物であるのかもしれません。とはいえ、この先小澤氏がノーベル賞を取るようなことがありますと、ベストセラーになりそうな書物ではあります。

さて、小澤の不等式に関しましては、先ほどリンクを示しましたニュースにもかなり詳しくでておりますし、詳細は同書をお読みいただくことといたしましょう。簡単に言えば、ハイゼンベルクの不確定性理論が、観測対象のぼやけと測定に伴う擾乱とをごっちゃに扱っているのに対して、この双方をきちんと分けて扱うのが小澤の式ということで、同書によりますとハイゼンベルクに従えば不可能とも思える精度が小澤に従えば可能となり、きわめて小さい変位の測定が必要な重力波の検出も容易になるかもしれないという点で物理学者の興味を引いております。

前回のブログで議論いたしました観測問題に関しても、この書物はかなりのページを割いて説明しております。そこで本日はこちらにつきまして多少詳しくご紹介いたしましょう。

まず、二重スリットを用いた電子線の干渉実験におきまして、電子は双方のスリットを通過したように振舞います。スリット間の距離が電子のサイズよりはるかに大きいことを考えますと、これは不思議な現象に思えるのですが、ボームはこれに納得のいく説明を与えております。彼は粒子のほかに量子力学的ポテンシャルが存在するといたします。確かに、荷電粒子の周囲には電気ポテンシャルがあり電場が生じるわけで、場は広がりを持っております。電子自体が二重スリットのどちらかを通ろうとも、ポテンシャル場は双方のスリットと相互作用いたします。ただしボームのいう「量子力学的ポテンシャル場」は電場ではありません。これが何であるかはいまひとつはっきりしないのですが、場が関与しているといたしますと、電子がいずれか一方のスリットを通過しても干渉図形が現れるという結論は納得がいきます。

ボームの説はコペンハーゲン解釈と同じ結論を与えるとして忘れ去られていくのですが、ベルがこれに類似した「隠れた変数」の理論を発表し、再び注目を集めます。しかしながら、ベルの不等式は実験的に否定されてしまいました。一つの疑問は、これがボームの理論を否定したということなのでしょうか? 私にはそうであるとは言えないように思えるのですが、、、

もう一つの重要な解釈はエヴェレットによります多世界解釈で、驚くべきことに、この説も今日かなりの支持を集めております。この説に対する通俗的な説明は、波束の収縮ごとに世界が分かれる、としばしば聞かされるのですが、同書によりますとエヴェレットの説はこれとは少々異なり、次のように記述いたしております。

これは要するに、測定のたびに「観測者」が新しく発生し、その自我が無限に連鎖していくということである。エヴェレットは、一人以上の観測者がいる場合には標準的な解釈は適切ではない、と考えた。観測によって世界の記述は少しずつずれていくが、標準的な解釈とは異なって波束は収縮せず、重ね合わせの状態が維持される。波束の収縮という概念は捨て去られ、波動関数は無数の実在する世界の重ね合わせを表しているのである。エヴェレットに始まるこの解釈の系譜を「多世界解釈」と呼ぶ。現在ではいくつも流派があるようだが、大ざっぱには、可能性のある世界の中の一つが、自分の測定に対応して存在している(そして自分もその世界にいる)ということである。

つまりエヴェレットの多世界解釈によりますと、観測者ごとに世界があるということなのですが、前回のブログで議論いたしましたカントの主張を受け入れるなら、世界を認識するのは観測者の意識であって、観測結果は観測者の精神の内部にあるわけですから、観測者の数だけ世界があることには何の不思議もありません。つまりは、コペンハーゲン解釈がカント的世界観に基づくものであるのであれば、多世界解釈とコペンハーゲン解釈とは同時に成立している、ということになります。

この議論は少々複雑ですので、以下、詳しく議論いたしましょう。

世界ということばはさまざまは広さに対して用いられ、広くは仏教での過去現在未来東西南北の全てを指す用法から、狭くは「源氏物語の世界」など特定の領域をさして用いられますが、これらをひっくるめて、互いに関連する要素と関連のありよう、およびそれを含む背景・空間の総体といった意味であると考えればよいでしょう。

観測という行為は情報の伝達に他ならないのですが、その情報が何に固定されているかという点に注目すると、この問題の本質が見えてまいります。まず、電子の位置に関する情報は電子自体が保持していると考えるのが妥当でしょう。この電子は、カントのいう「物自体」の世界の存在であり、宇宙、自然界、物理的世界などと同じ概念です。物自体の世界は人とは独立にそれ自体で元々存在している世界とみなすのが妥当でしょう(この部分に異論があることは承知しておりますが。)この世界を実世界(real world)の意味で「世界R」と呼ぶことにいたしましょう。

観測者は各人の知覚を用いて観測を行い、観測結果は観測者の精神世界に取り込まれます。この精神世界は主観や自我と呼ばれるもので、取り込まれた情報は、物理的には観測者の脳が保持しております。この世界を認知された世界(cognitive world)の意味で「世界C」と呼ぶことといたします。世界Cは観測者の数だけ存在します。

観測は世界Rから世界Cへの情報伝達なのですが、これだけではその観測は個人的な認識にとどまります。これが科学・学問のレベルに至るには、その認識が「普遍妥当性」を獲得する必要があります。普遍妥当性とは、多くの人々が受け入れるという意味であり、社会的な認知を受けるという意味です。社会は人々の集団であり、互いにコミュニケーションをすることで認識結果を共有しております。社会全体もさまざまな情報を処理・蓄積しており、知的活動の主体として機能しています。その上に成り立つ世界を社会的世界(social world)の意味で「世界S」と呼ぶことといたします。

社会が複雑な構造をしているため、世界Sは非常に複雑な性質を持ちます。社会の重層性に対応して、観測結果は、通常はきわめて狭い範囲の社会(研究室の同僚など)にまず共有され、徐々に広い範囲の社会に共有範囲が拡大します。世界Cも多数存在するのですが、世界Cが互いに独立した単純な構造をしているのに対して、世界Sは広い世界が狭い世界を含んだり、世界の範囲が変動したりと非常に複雑な構造をとります。

最も大きな社会は人類全体という社会であり、その社会で普遍妥当性を有する認識結果が、常識、学問上の定説などと呼ばれるものであり、カントが普遍妥当ゆえに客観的性質を持つとし、フッサールが相互主観性の上に再定義した客観に相当いたします。

これに対して、世界Rはカントが物自体と呼んだ世界に相当し、英語のオブジェクト(対象・客観)の語源を考えれば西洋社会が古くから客観と認識していた世界に相当します。今日の物理学者が世界というとき、それは、世界Rそのものを意味するのか、世界SなりCなりに含まれる(モデル化された)世界Rを意味するのかを見極める必要があるのですが、観測問題の議論に際してはこの部分に混乱があるように、私には思われます。

三つの世界につきましては以前ご紹介いたしましたように、ポパーも唱えております。上で論じた世界Rはポパーの世界1と同じ自然界であり、世界Cはポパーの世界2と同じ主観の世界です。ここまではポパーの考え方は私の考え方と同じなのですが、世界Sが人間社会がつくり出す普遍妥当の世界であるのに対し、ポパーの世界3は、整数の世界のように、精神や生物による必ずしも意図的ではない産物だが、いったん生み出されるとそれらから独立して存在する客観的構造をもった世界であり、私が世界Sとして想定しております知的活動の主体として振舞う人間社会の上に構成された世界とは異なります。

とはいえ、重要な点は自然界と主観の世界(人が認識する世界)を異なる世界としていることでして、これを受け入れるだけで、コペンハーゲン解釈と多世界解釈を同じものであるとみなすことができるのは上で論じたとおりです。