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「科学を語るとはどういうことか」を読む

このところ科学哲学づいておりますこのブログですが、本日は、須藤靖氏と伊勢田哲治氏の対談「科学を語るとはどういうことか-科学者、哲学者にモノ申す」を読むことといたします。

物理学者 v.s. 科学哲学者

著者の一人であります須藤靖氏は先日このブログでご紹介いたしました「主役はダーク」の著者でして、同書の中でも散々科学哲学者に対する非難のことばを連ねております。本日ご紹介いたします書物は、これを見ました科学哲学者から一言言わなくては、との申し出でがあって成立したようないきさつが前書きに書かれております。

わが国の学術世界は蛸壺的構造をしており、異分野の学者が議論を交わすということはあまりありません。そういう意味でこの書物は、互いに水と油であります物理学者と科学哲学者が己の面子をかけて対決いたしました、きわめてレアな書物であるといえるでしょう。ただし、その議論は行き違いで、物理学者の誤解を多少解く結果とはなっておりますが、あまり実り豊かな内容とはなっておりません。

とはいえ、その対談の内容、特に伊勢田氏の発言から、今日の科学哲学の現状がおぼろげに透けて見えまして、これは少々まずい状況であるように私には思えます。

結論から言ってしまえば、今日のわが国の科学哲学に、日本社会から見た存在意義はまったく認められません。ではなぜ科学哲学が存在し得るかといえば、科学哲学会が公式に認められた学会であり、いくつかの大学に科学哲学の講座があり、その改廃は非常に困難であるからに過ぎないように私には思われます。つまりは、ある種の既得権益がそこにある、ということなのでしょう。

同書の伊勢田氏の発言で奇妙に感じることは、科学哲学について須藤氏に説明するのですが、その中に良い科学哲学論文の書き方についての説明が目に付くことです。良い論文とはどのようなものであって、どうすればよい論文が書けるかということが科学哲学者の大きな関心の的であるようです。で、その良し悪しの判断基準は、社会に如何に役に立つかということではなく、科学哲学会の受けが良いかどうかであるようにしか読み取れません。

こんなことをやっていては、科学哲学などわが国には不要だし、下手に大学に講座などを維持いたしますと、そこに入ってくる学生たちが社会には何の役にも立たない人材になってしまいます。そういう人を育てることが、今日の科学哲学の役割であるようにすら見えるのですね。

科学領域で高まる哲学の重要性

一方で今日の科学においては、哲学的考察の重要度はどんどん高まっているように私には思えます。2つ前3つ前のこのブログで議論いたしましたように、量子力学の観測問題を考える際に哲学的議論は避けて通れません。少なくとも、ハイゼンベルクはカント哲学に基づいてコペンハーゲン解釈を提唱しておりますし、エヴェレットの多世界解釈も本来の姿では観測者の意識の問題が表に出ており、主観と客観に関する哲学的考察がそこには必要です。

さらには、脳科学は人の認知メカニズムを脳内部での物理現象で説明しつつありますし、米国では人の脳と同様の機能を持つ人工知能の開発計画が進められております。これらに対する哲学的考察も喫緊の課題でしょう。ちなみに、このブログのトップページに置きました実験的小説レイヤ7は、人口知性体を扱ったもので、人間の知性を上回る人工頭脳を作り出すことは可能であり、学会の倫理規定でこれを禁止すべき、としております。

あってしかるべき哲学的考察に対して物理学者は無関心であり、哲学者も物理学への応用には関心をほとんど示さない、これは非常に不幸な状況であるように私には思われます。こんな状況がなぜ生じたかといえば、今日の学問が縦割りとなっており、その間のコミュニケーションがあまり行われていないからではないでしょうか。

この傾向は科学哲学者とその他の哲学分野のあいだにもあるように私には思われます。といいますのは、今日の物理学に必要な哲学的知見は、カント哲学やフッサールの現象学に属するものなのですが、今日の科学哲学者にはこの分野への関心がほとんどありません。

私が以前日本科学哲学会で発表を行ったとき(内容はこちら)懇親会でいただきました忠告の一つが「現象学などを持ち出した時点でアウト」というものでした。私にとりましてその理由は謎であったのですが、確かに同書の伊勢田氏の発言内容を見ますと、私の発表は今日の科学哲学会に受けが悪いであろうことは良くわかります。でもそんなことでよいのかどうか、はなはだ疑問であるわけです。

あるべき未来

とはいえ、科学哲学者が現象学やカント哲学の領域に足を踏み入れたがらない理由も理解できなくはありません。これらの領域はそれぞれを専門とする哲学者の縄張りであり、下手にフッサールやカントに言及いたしますと、これらの専門家から難しい議論を吹っかけられるリスクがあります。カントやフッサールの著作はきわめて難解であり、門外漢がこれらを完全に理解することは難しいという事情もあります。

しかしながら、そんなことでは学問の進歩というのも難しくなるでしょう。そもそも、カントやフッサールの到達した結論を利用するのに彼らの書物をことごとく読破する必要などさらさらありません。須藤氏は同書の中で「ニュートンの書物など読んだことはない」と白状しているのですが、だからといってニュートン力学の成果が使えないわけではありません。

ニュートンの書物の詳細に関してはニュートン文献学者に任せ、物理学者はその結果だけを使えばよい、これが普通の学問的成果の利用法というものです。そういう意味では、今日のわが国にはカント文献学者やフッサール文献学者は多くおられるのですが、カント哲学や現象学の成果をさまざまな分野に適用して知見を深める、「物理学者」に対応するような「哲学者」は存在しないように私には思われます。

まあ、そういうことができるためには、真に現象学やカント哲学を理解していなければならないのですが、そういうことをする人がいないということは、今日のわが国の哲学者も実際のところカント哲学や現象学の実際の価値をあまり良く理解できていないのではないでしょうか。もちろんこれを理解するためには、科学の最前線(というほど大変なものではないかもしれませんが)に対する一定の理解が必要であり、哲学者が理科系の学問に疎いという背景故に哲学の応用面には疎いのかもしれません。

現象学者の中には正しい現象学的還元について細かな議論をする方もおられました。これは学問的には正しい議論であるのかもしれませんが、「正しいラジオ体操を普及する公益法人」と同様、もしも税金を使ってこんなことをしているといたしますと、これは少々問題があるように思います。つまりは、もう少し役に立つことをやった方がよいように思われるわけです。