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「客観的」なるものをめぐって

客観的ということばに関してイケダハヤト師の書評にコメントをつけたのですが、なにぶん短い文章では私の意図が伝わりにくいかもしれません。この問題に関しては、これまでにこのブログに種々書いてまいりましたので、以下、これらのまとめを少し詳しく書いておきます。

まず、旧来の西洋の客観概念ですが、ザイードのオリエンタリズム(上)(下)によりますと、西洋の現実世界(客観)に関わる概念は以下のようになっております(参考)。

先進国すなわち西洋は、「現実世界が観察者にとってあくまで外在的なものであり、知識とはデータの記録および分類―それらは正確であればあるほどよい―から成り立っているという考え方にしっかりと依拠している」。この点についてキッシンジャーが提示する証拠は、ニュートン学説による思想革命であって、途上国世界ではそのようなものは現在に至るまでついに起こらなかったとするのである。「早期にニュートン学説の洗礼を受け損なった文化は、現実世界がほぼ完全に観察者の主観の内側にあるとする本質的にニュートン学説前の世界観を、今に至るもなおもち続けている」というわけだ。そこで、彼はこう続ける。「新興諸国の多くにとって経験的現実とは、西洋にとってのそれから著しくかけ離れた意味をもっている。なぜなら新興諸国は、ある意味で、そのような現実を発見する過程をまったく通過しなかったからである」

すなわち、現実世界(客観世界)は観察者の主観の外部にあり、観察者は知識をこれに近づけるとしております。

これにたいしてカントは以下のように述べ、物自体を人は知りえないといたします(参考)。

私が言っているのは、物は我々の外にある感官の対象としてわれわれに与えられるが、ただし、物がそれ自体としてどんなものかについてわれわれは何も知らず、ただその現象、すなわち物がわれわれの感覚を触発するときにわれわれのうちに引き起こす表象を知るだけである、ということである。

ここで「表象」とは、我々の意識のうちに表れた知覚の結果であり、認識された外界(認識された物)を意味します。これは今日では当然のことであるように私には思われます。つまり、外界の認識は、人の脳内で生じている作用であり、認識された外界は脳内に保持されております。人は外界自体を知るために外界を観察しており、認識された結果として脳内に形成された外界を外界そのものと考えるのは自然な流れではあるのですが、よく考えればそれは脳内に形成された外界の姿であることは否定のしようもありません。

とはいえ、それだけでは主観こそ全てということになってしまい、認識結果は極めてあやふやなものになってしまいます。カントの思想は「観念論」との批判を受けるのですが、これに対してカントは以下のように反論しております(参考)。

経験的な判断は、客観的妥当性をもつかぎりにおいて、経験判断である。しかし、ただ主観的に妥当するだけなら、そういう経験的な判断を私は単なる知覚判断と名づける。後者はいかなる純粋悟性概念も必要とせず、思考する主体における知覚の論理的結合を必要とするだけである。ところが前者は感性的直観の表象に加えて、特殊な、悟性において根源的に生み出される概念をつねに要求し、そしてまさにこの概念が経験的判断が客観的に妥当するようにしているのである。

すべてのわれわれの判断は、まず単なる知覚判断である。つまりそれらはわれわれに対してのみ、すなわちわれわれの主観に対してのみ妥当する。そして、後になってはじめてそれらの判断にわれわれは新たな関係、すなわち客観への関係を与えて、いつでもわれわれに対して、まただれに対してでも妥当するようになるように求める。というのは、判断が対象と一致する場合には、その同じ対象についてのすべての判断はまた相互に一致しなければならず、そのようにして経験判断の客観的妥当性が意味するのは、その必然的な普遍妥当性にほかならないからである。

すなわち、単なる主観的判断であればそれは個人的な知覚に過ぎないのですが、いつでも誰に対しても妥当する普遍妥当性を伴えばそれは「客観的」と言えるであろうとしております。

ポアンカレもこれと同様の記述をしております。(詳細はこちら)。

われわれの住んでいる世界の客観性を保証するものは、この世界を思考力をもった他のものたちと共有しているのだ、という事実である。他の人間達との連絡によって、われわれはでき上がった推論を彼らから受けとる。これらの推論がわれわれから出たものでないことをよく知ってはいるが、それと同時に、これはわれわれと同じく理性をもったものが行った推論であることを認めるのである。そして、それらの推論が、われわれの感覚の世界に応用できるように見えるので、われわれと同じ物を見たのだ、と結論することができるように思う。夢を見たのでないことがわかるのは、このようにしてなのである。
……
たとえば、外的なものは、そのために客観的なもの(英語で言えばオブジェクティブ、対象となる)という言葉が作られたのであるが、それはまさに客観的なもの(間の抜けた翻訳ですが)であって、見えたかと思うとたちまち逃げ去って捕らえることのできない外見なのではない。客観的な対象(英語で言えばオブジェクト、ですね)は、単に感覚の寄り集まったものであるばかりでなく、常住普遍な絆によって結び付けられた集まりなのである。外界の事物において客観的なものはこの絆であり、またこの絆のみなのである。そして、この絆こそは、すなわち、関連のことなのである。

というわけで、これらをまとめますと、物自体を我々は知りえず、我々の精神内に形成された知覚の結果を主観的に知ることしかできないが、それが他者にも受け入れられるなら、それは客観的とみなしても良かろう、ということとなります。

フッサールは「デカルト的省察」の中で以下のように記述いたします(参考)。

客観的世界という存在意味は、わたしの第一次世界【自我の世界、主観】の基盤の上に、いくつかの層を重ねることによって構成されるのである。それの最初の層としては、他我あるいは他我一般を構成する層、すなわち、わたし自身の具体的存在〔第一次自我としてのわたし〕から排除された自我を構成する層が浮き彫りにされなければならない。

他我を構成する層が浮き彫りにされると同時に、しかもそれに動機づけられて、わたしの第一次世界の上に、普遍的な意味の層が重ねられ、そうすることによって、わたしの第一次世界は、規定された客観的世界、すなわち、わたし自身を含めた全ての人にとって一つの同一の世界としての客観的世界の現れになるのである。したがって、わたしにとって本来最初の他なるもの〔最初のわたしでないもの〕は、他我である。そしてその他我が、他のものの新しい無限の領域、すなわち、全ての他我とわたし自身を含む客観的自然と客観的世界一般との構成を可能とするのである。

フッサールの書物はカントに輪をかけて理解困難な書物ではあるのですが、私の理解したところでは、コギト(思う我)から省察を進めて上記の結論に至っていると考えてよいでしょう。つまり、カントやポアンカレが直感的に記述しております客観を「普遍妥当性」で代用するとの主張を論理的に裏付けて、普遍妥当性の上に客観を再定義したと理解しております。

このような考え方は、見方によっては全てを主観の上に構築する独我論であるといえないこともありません。しかし、人が世界を認識するのは自らの主観によってのみ可能であり、主観の中に現れた他者に受け入れ可能な形に自らの認識なり言辞なりを修正していくことが、普遍妥当性を獲得するみちであり、客観的な認識に近づける唯一の手段であるともいえます。

種々の主張は、それが学術的であるためには、先人の思想を理解したり、自らの思想に対する同僚の批判や助言を受け入れ、さらには書物に対する批判やさまざまな意見に対して応えるといった過程を通じて普遍妥当性を獲得するというプロセスが欠かせません。このようなプロセスは一般的に行われていることであり、そうである限りにおいて、すべてが主観の上に構築されているからといって、これを客観的認識であるとみなすことも誤りであるとはいえないでしょう。