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多世界解釈とコペンハーゲン解釈を説明する思考実験

先日のこのブログで、「コペンハーゲン解釈がカント的世界観に基づくものであるのであれば、多世界解釈とコペンハーゲン解釈とは同時に成立している」などと書いたのですが、これをわかりやすく説明する例を考え付きましたのでご紹介いたします。

ポーカーなどのカードゲームでは、テーブル上にシャッフルしたカードを置き、プレーヤーが上から順に札をめくってまいります。プレーヤーは、札をめくる前は一番上のカードが何であるかは確率的にしか知ることができないのですが、札を手にした瞬間にそれが何であるかを知ることとなります。これは、波動関数の収縮ときわめて類似した状況であり、さらにこれをシュレディンガーの猫と同じシチュエーションにすることもできそうです。

郵便番号が書かれた葉書を郵便局が処理する際、番号を読み取って多数のホッパーに自動的に振り分ける装置が使われています。同様なメカニズムを用いて、カードを多数のホッパーに自動的に振り分ける装置を用い、(読み取られた番号ではなく)放射性物質の脇に置かれたガイガーカウンタからの信号により、順次カードを入れるホッパーを切り替えるようにいたします。いったん振り分けが終了したら、それぞれのホッパーのカードを順に積み上げて入り口に戻し、再度振り分け作業をいたします。これを繰り返しますと、量子力学的擾乱によりシャッフルされたカードの束が出来上がります。

この状況下で最上部のカードをめくりますと、シュレディンガーの猫の箱を開けた瞬間と同様、全ての可能な状態の重なり合った状態から、特定のカードに波動関数が収縮する、というのがコペンハーゲン解釈です。

これをカント的世界観で説明いたしますと、積まれたカードは物自体の世界であり、その順序は我々がカードをめくる前から確定しているのですが、そんな事実はポーカーのプレーヤーにとっては何の助けにもなりません。人間にとって意味のある世界は当人が認識した世界であり、認識された世界における最上部のカードが何であるかは、当初は確率的にしか知りえなかったのですが、カードをめくって見たことによって確定することになります。

ポーカーの場合は、あるプレーヤーがめくったカードの種別は当人しか知ることができません。つまりその人の主観世界におけるカードの状況と、他のプレーヤの主観世界におけるカードの状況は異なるわけで、カードをめくるたびに世界が分裂した、ということもできます。

最初から、それぞれのプレーヤーの世界は別物ではあるのですが、、、

人間にとって意味のある世界は認識された世界であって物自体の世界ではない。このカントの世界観を受け入れますと、量子力学におけます観測問題は非常に簡単に説明がなされますし、コペンハーゲン解釈も多世界解釈も、この中にすっきりと収めることができます。

なぜこんな簡単な話が物理学の常識にならないのでしょうか。

確かに、少し前のブログに引用しましたキッシンジャーの理解のように現実世界は観察者にとってあくまで外在的なものであり、我々が論じているのはまさにその現実世界であると考えますと、上のような理解には至らないでしょう。そしてキッシンジャーは今日でも知識人に分類される方ですから、このような考え方は今日なお、多くの人々が持ち続けていても不思議はありません。

人は外的世界を知るために、前を見、物に触れ、知覚を働かせております。ですから、こうして認識した世界を外的世界であると考えるのは自然なことです。

しかしながら、人が外的世界のさまざまな事物を認知するプロセスは、感覚器官から脳にいたる神経の働きであって、人が認知した外的世界は人の脳の中に保持された外的世界の認知結果であって、外的世界そのものではありません。すなわち、人が外的世界と考えている事物が人の精神機能の内部に保持された事物であることは、歴然たる事実であるわけです。

人は外的世界を知るために知覚機能を働かせ、その結果得られた認識を外的事物そのものであると考えることは自然な成り行きではあるのですが、人が世界を認識するプロセスまでを考えますと、人が知りえる世界はあくまで認識された世界であり、外的世界そのものではないと理解できるでしょう。これを最初に唱えたのはカントであり、彼は「人は物自体を知りえない」と述べております。そしてこれをコギト(考える我)から演繹して理論化したのが現象学の先駆者であるフッサールでした。

全てを根底まで問い直す哲学の世界では、カントの考え方は市民権を得ておりますし、現象学も(世間の関心はさほどあるわけでもないのですが)否定はされておりません。つまりは、外的世界を論じていると我々が考えているのはある種の錯覚である、ということなのですね。

このあたりは、広く学問の道を志す人々が哲学の基礎を一通り身に着けていただきたいところでもありますし、そうなっていない責任の一端は今日の哲学者にもあることを哲学者の方々も意識していただきたいところでもあります。

まあ、各人がしっかりと考えればよいだけの話ではあるのですが、、、