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シュレディンガー「生命とは何か」の間違い、あるいは「エントロピー増大」の誤解について

最近、楽天ブログの下のほうに「このブログでよく読まれている記事」というランキングが表示されるようになりました。このランキングの評価方法は今一つ謎なのですが、「シュレディンガー著「生命とは何か」を読む」が多数の閲覧数を集めているとのことで、その内容を再チェックいたしました。(WordPressに切り替えております現在は、このランキングは表示されておりません。その代わり、毎月終わりごろに、人気記事のベスト19ランキングを発表しています。)

問題のある記述

私の書きました内容自体には問題はないと思われたのですが、問題の「生命とは何か」を読まれた方々の感想をウェブでチェックいたしますと、自然界ではエントロピーが増大するのが普通だが、生物はエントロピーを減少させるとシュレディンガーが指摘したようなとらえ方がされて、多くの方が感銘を受けている様子であることが分かりました。

この記述は、同書139ページの「57.生物体は『負エントロピー』を食べて生きている」以降の記述が感銘を与えたのであろうかと思います。この部分のシュレディンガーの記述に対しては、物理学者からの反論があった旨が147ページ「第6章への註」に述べられています。物理学者はエントロピーではなく「自由エネルギー」について論じるべきであると指摘したのですね。これに対するシュレディンガーの意見は甚だあいまいであるというしかありません。つまるところ、第6章の57節以降は、さしあたり読み飛ばすべき部分である、と私は判断した次第です。

以下、多くの方々の誤解を解くために、いくつかの知見を述べておきましょう。

変化の生じる方向

第一に、生物体といえども、その内部で生じているのは一般的な化学反応と何ら異ならない、ということです。生命活動は特殊な現象ではなく、その基本原理は、無生物で生じる自然現象と全く変わらないと現在では考えられております。

第二に、エントロピーは全体でみれば増加することは確かなのですが、その部分部分で生じている個々の現象は、自由エネルギーを失う方向に変化が生じます。これは少々難しい概念を含みますので、例をあげてご説明いたしましょう。

まず、自発的な変化あるいは運動は、エネルギーを失う方向に生じます。ボールを持ち上げて手を放せばボールは下に落下する。これは、ボールの持つ位置エネルギーを失う方向に運動が生じるからです。ここで、エネルギーは保存されますので、位置エネルギーは運動エネルギーや熱エネルギー(これも広義の運動エネルギー)に変化するのですが、変化・運動を議論する際には運動エネルギーや熱エネルギーは別扱い(つまり、除外)しなくてはいけません。

しかしながら、系に擾乱がある場合は、必ずしもボールは下に落ちるとは限りません。箱の中にボールを入れて箱に振動を与えれば、振動が小さな間はボールは底にとどまっておりますが、振動の大きさが一定限度を超えれば、ボールは箱の中であちこちに飛び回るでしょう。

化学反応の場合、このような擾乱は熱によって引き起こされます。温度が低いあいだはエネルギーを失う方向に化学反応が進むのですが、温度が高くなりますと無秩序状態がより安定となります。

定量的表現:自由エネルギー

これを定量的に表すには、化学エネルギー(エンタルピーと呼びます)をH、無秩序の指標(エントロピー)をS、熱擾乱の程度(絶対温度)をTとするとき、G = H - T Sで表される値Gを(ギブスの)自由エネルギーと呼びます。で、化学反応は自由エネルギーGを失う方向に進む、ということになります。

G = H - T Sという式を見ていただくとわかりますように、自由エネルギーGを失うためには、Hが低下するか、T Sが増加するかの方向に変化が起こらなければなりません。そしてこれらが逆方向に作用する現象においては、いずれが勝るか(つまりその差)が変化の方向を決定するのですが、エントロピーSの増加が影響する項は温度との積ですので、高温下ではエントロピー増大の影響が強く表れることとなります。

例えば、一般的な条件下では、酸素と水素は反応して水を生成します。これは、酸素と水素の持つ化学エネルギーが水の持つ化学エネルギーに比較して非常に大きいことによります。無秩序という意味では、双方が結合した水に比べてばらばらの水素と酸素はより無秩序なのですが、通常の温度範囲では化学エネルギーの放出が勝り、水素は燃焼して水を生成いたします。

これが、2000℃以上の高温になりますと、熱による擾乱が勝り、水は水素と酸素に分離いたします。さらに2500℃以上になりますと、水素分子は二つの水素原子に、酸素分子は二つの酸素原子に分離し、非常に無秩序な状態がそこには生まれることになります。

まとめ

少々話が飛んでしまったきらいがありますが、要は、化学反応の進行は、あくまで自由エネルギーを失う方向に生じるのであって、エントロピーが増大する方向に進行するのではないことをご理解いただきたいと思います。そして、生物が秩序だったものを作り出すのは、それが自由エネルギーを大きく失っているから。生物は呼吸という、燃焼に類似した、化学エネルギーを大きく失う反応を行っているからに他ならないという点に注意しなくてはいけません。

すなわち、生物は負のエントロピーを食べているというシュレディンガーの主張は誤りで、生物は高い化学エネルギーを食べているというのが正しい認識です。

食品に含まれる化学エネルギー(燃焼によって放出されるエネルギー)は「カロリー」という単位で表示され、日常生活でもおなじみです。実際のところこの認識は、多くの人が普通に行っているといってもよいようなものです。

シュレディンガーの同書の記述に関しては、他の物理学者からの異論に関する注記がなされているにもかかわらず、シュレディンガーの主張に簡単に感動してしまう人が多いことは少々問題です。ノーベル賞を受賞した物理学者といえども間違った主張をすることもある。このあたりまえの現実をしっかりと意識しなくてはいけません。(5/10:一部修正しました)