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客観的外界の実在と神の実在

デカルトによる神の存在証明は、自らが確かな外界の実在を信じられるがゆえに神は実在するというもので、この証明は証明になっていないとする考えが多数派なのでしょうが、ひょっとするとこの証明は良いところを突いているかもしれません。

本日はこの点について考えてみることといたしましょう。

絶対的真実が存在するとは

以前「竹田青嗣著『ニーチェ入門』を読む」と題して竹田青嗣氏の書かれた「ニーチェ入門」を読んだのですが、その中の以下の部分は意味深長です。

「真理への意思」は、要するに「絶対的に正しいものが存在する」という“信仰”を前提としている。近代科学も近代哲学も、この「絶対的に正しいもの=真理」を追い求めようとする情熱において一致する。そしてニーチェによれば、この“信仰”はキリスト教の「禁欲主義的理想」から生じたものなのだ。つまり近代的な「真理」への信仰は、キリスト教の理想の中で育て上げられたものだと言うのである。

この「絶対的に正しいもの=真理」の一つが外界の実在であり、素朴な自然観では、人は外界の実在の中に生きており、これをはっきりと認識している、とみなします。

このような考え方は、今日の多くの人が当たり前と感じており、物理学者の大多数もそのように考えているのですが、量子力学の観測問題ではこの部分が少々怪しくなります。つまり、箱の中で生死不明なシュレディンガーの猫は、生きているねこと死んでいる猫が重なり合っている、とか、猫が生きている世界と死んでいる世界に、世界は分裂した、だとかいう話になるのですね。

カントの不可知論

一方、カントが指摘したように、人が知ることができるのは、感覚器官のこちら側であって、その向こう側がどうなっているかは知ることができない、という問題があります。近年の脳科学は、人の知覚が、感覚器官の刺激を直接知るのではなく、当人の意識しない部分で様々な処理が行われた結果を知っていることを教えております。

たとえば、左目を閉じて下のを画面との距離を変えながら見ますと、ある距離で下のが見えなくなります。

                

これは、眼球に視覚のない部分があって特定の部分が見えていないためなのですが、見えていないということを人は気づいておりません。網膜から出た信号が直接脳に伝達されるのではなく、何段階もの情報処理を受けて、視覚のない部分も周囲の情報から適当に補う処理が、意識の外でおこなわれているのですね。

そして問題は、片目をつむった際にも見えていない部分があるということに全然気づかないこと。一つ間違えればなど最初から存在しないことになってしまうことです。

デカルトによる神の存在証明 v.s. カント

このあたりにつきましては、以前も書きましたので本日は省略しますが、このような現実を受け入れたうえで、確かな外界の実在を知っていると考える、これをどのように調停したらよいかが問題となります。

この一つの解が、神の実在であって、人にとっては不確かな外界であろうとも、全知全能の神にとってはその実在は確かなのですね。だから、外界が確かに実在すると信じるということは、全知全能の神の実在を信じるということとイコールであり、デカルトの神の存在証明は正しい、ということになります。

もちろん、外界の実在を人は知りえないとするカントの主張に従うならば、神の実在も人は知りえないこととなります。

さて、デカルトとカント、正しいのはどちらでしょう。私はカントに軍配をあげたいと思うのですが、、、

世界に対する複数の見方があるということ

さて、カントの考え方を受け入れた場合、神についてどのように考えればよいか、という問題が生じます。

私は、カントの考え方を受け入れたところで、神を否定する必要などさらさらないと思うのですね。

今日の自然科学が教えるところによれば、生命活動は化学変化の一種だし、人の脳も超自然的な要素など全くない、ただの物体であり、非常に複雑な情報処理がそこで行われているのみであると考えられております。でも、人の命や心に何の価値もない、などということにはならないのですね。

私がそれをはっきりと認識したのは、お気に入りのマンガを繰り返し読んでいた時のこと。ある時それが、紙の上のインクであることに気が付いたのですね。これを読まれている方は、そんなことはあたりまえではないか、と理屈で考えられるのでしょうが、普通に漫画を読んでいて、そこにインクがみえたときの衝撃は、ランダムドット三次元画像が突然浮き上がって見えたようなものがありました。

質料と形相という考え方

で、いろいろと書物を読むと、こんなことは大昔の人も考えていた。ギリシャの哲学者、たとえばアリストテレスあたりは、質料と形相がある、というのですね。

ギリシャのことですから、そこら中に彫刻がある。大理石でできたアポロンの像があったとき、それは大理石(質料)であると同時にアポロンの像(形相)であるわけです。そしていずれを重視するかといえば、普通の人はアポロン像としてそれを扱う。

マンガだってそうなのですね。そりゃあコミックは紙とインクに違いはないのですが、そんなものを飽きもせず眺めているのはそこに漫画が描かれているから。

命や心の意味も、実は形相の部分にあるのであって、DNAだのニューロンだのといった物理的実体とは別に考えなくてはいけません。

そういう意味では、この世界のいずれかの場所、またはあらゆる場所に神を見出したところで、何の不思議もありません。

完全なる神を想定するのであれば、この宇宙全体こそが神である、と考えるのが妥当ではないでしょうか。

神様へのお願い

もちろん、この神様に何かお願いをしたからといって何がどうなるわけでもないとは思うのですが、それを言い出すなら、お願いをしている本人にしたところで、さまざまな化学物質がニューロンを流れるインパルスに従って動いているだけの話なのですから、これに何かをいうことも余計なおせっかいであるような気もいたします。

おまえもなー、なんて言わないでくださいね。

つまるところ、この手のことは、それぞれの人が気のすむようにやればよいだけの話ではないか、と思うのですね。イスラムの人も、好きなようにやればよい。ただしテロだけはお断り、というわけです。