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転向ノススメ

この正月に西部邁氏が入水自殺されています。これに関して、西部邁氏の転向を高く評価するコメントを、以前BLOGOSに付けたのですが、本日はこの「転向」の意義について、ちょっと書いておきましょう。

転向できる凄い人と転向できないダメな人

結論から先に書いてしまいますと、間違いを犯さない人などまず存在しないのですから、人は、間違いを正せる人と、間違いを正せない人の二つに分類することができ、転向のできるできないは、このいずれかに属するかを決める決定的な要素になってしまいます。

今日、時代は、恐ろしい勢いで変化しております。かつて正しいと思われていたことも、あっという間に、おかしなこと、間違ったことになってしまいます。これが正せるか正せないか、これは、今の時代を生きる上で極めて重要なポイントでしょう。

以下、私が気付いている転向すべき思想、かつては正しいと思われていたけれど、今では少々おかしな考え方について、これまでこのブログで述べてきたことやBLOGOSに付けたコメントなどをまとめる形で記してみたいと思います。

共産主義・社会主義・似非リベラル

最もわかりやすい転向すべき思想が共産主義でしょう。

かつてマルクス主義が輝いていた時代、資本主義の次に共産主義の時代が来ることは「歴史的必然」などといわれていたのですが、共産主義国家の代表的存在でありましたソヴィエト連邦があっさりと崩壊し、鉄の結束を誇っておりました東側諸国も次々と非共産主義政権へと移行してしまいました。

今日共産党の支配する国家といえば、中国、北朝鮮を真っ先に思い浮かべるのですが、これらの国において「共産主義」は独裁政治を正当化する言い訳、ある種の迷信と化してしまっております。

社会主義にしたところで、かつては、経済成長の成果を広く国民全体に分配するという意味でプラスの役割を果たしていたのですが、経済成長が頭打ちとなり国家間の経済競争もし烈になりますと、成果の分配を争うよりも、いかにして一国の経済を成長させるかが国民全体の幸福につながるようになりました。こうなりますと、以前のような社会主義的主張、つまりは資本家の財を市民に分配せよとの主張は力を失ってしまいます。

今日「リベラル」を僭称する人たちは、かつての共産主義者・社会主義者に多く見られ、これらの思想が時代を失ってしまったことを理解しているが故に自らの名乗りを変えているように見受けられます。

でも名乗りを変えはしたものの、思想を変えるには至っていない。このような、呼び名だけを変えるようなやり方は、偽装食品同様の、世間を欺こうとしている人たちにしか、私には見えません。

こういう人たちは、まずは転向すること。呼び名だけではなく、思想から変えるように努力しなければいけないのですね。

そもそも、いくら名乗りを変えたところで、主張している中身が変わらなければ、時代を失ってしまった現状から何の変化も生じません。無駄な努力は止めた方が良いと思います。

βカロテン

「朝日記者が炎上『エビデンス? ねーよそんなもん』を深掘りしてみた 『臨床研究』も千差万別!一見ちゃんとした医療記事に騙されないで - 鳥集 徹」と題するBLOGOSのエントリーに、次のような興味深い一節があります。

たとえば、ニンジンなど緑黄色野菜に含まれるβカロテンの話が有名です。かつてβカロテンは細胞や遺伝子が傷つくのを防ぐ抗酸化作用があることから、がん予防になると期待されました。そこで、80~90年代にかけていくつか臨床試験が行われたのですが、喫煙者など肺がんリスクの高い人を対象にした2本の研究で、予想に反してβカロテンを多く摂取したグループのほうが、あまり摂取しなかった人よりも肺がんのリスクがかえって高くなる結果が出たのです。そのため現在では、喫煙者がサプリメントなどでβカロテンを摂取することはやめたほうがいいとされています(国立がん研究センター がん情報サービス)。

βカロテンは、かつては健康に有益であると思われていたのですが、案に相違して、少なくとも喫煙者には発癌リスクを高めるという結果が得られてしまいました。

これを「喫煙者がサプリメントなどでβカロテンを摂取することはやめたほうがいい」とするのは、まずは当然の判断なのですが、その他についてどうであるのか、頬かむりすることも少々問題であるように私には思えるのですね。

まず第一に、喫煙者以外には無害であるのか有害であるのかがわからない。喫煙者で有害という知見が得られているなら、それが非喫煙者では安全であるという「エビデンス」がない以上、非喫煙者にも危ないと考えるのがふつうであるように私には思えます。

また、その忌避すべき摂取方法を「サプリメントなど」とすることは、はたして正当といえるのでしょうか。ニンジンやカボチャなどをどう考えればよいのか、あるいは、摂取量をどう考えればよいのでしょうか。

普通に考えれば、サプリメントで危ないならば、野菜でとるのも危ないであろうという類推が成り立つでしょう。そして、ここまでは安全という量的基準が示されていない以上、まずは避けるのが正解ということになるはずです。

もちろん、安全な摂取基準が明らかになっておれば、それほどびくびくする必要もないのでしょうが、ひとたび危ないとわかったものの安全基準を調べようという人がなかなか現れないことも、まあ、理解できなくはない。

そういう現状下では、ガンの予防を考えるのであれば、上の知見からいえることは、βカロテンの摂取は避けるべき、ニンジンやカボチャは食べてはいけない、ということになるのですね。

このような議論にならない背景に、ひょっとすると、βカロテンの摂取を勧めてしまった過去があるのではなかろうか、と私は邪推しております。

医療関係者に近い人々が黄緑色野菜を健康に良いとしてその摂取を勧めてしまった。そうなりますと、これが健康を害する恐れがあることがわかっても、そんなことはいまさら言いだせない。そんな背景があるのかもしれません。

これに関しては、あえて他人の傷口を広げたいとも思いません。現時点では、βカロテンが普通の人にも発癌リスクを持つ可能性は指摘できるものの、それが実際には有害であるとも無害であるとも断言することはできません。これに関しては、ただただ自衛するのみでいきたいと考えております。

コギトの誤解

このブログで扱ってまいりましたコギトに関する誤解ローレンツ変換の問題に関しても、同様な事情があるように、私には思われます。

哲学や物理学を専門とする人々は、コギトやローレンツ変換について、書物に書き、あるいは学生たちを教育しております。このため、一旦、書いたり教えてしまった内容は、そうそう簡単には訂正できないという事情があるのでしょう。

デカルトの言葉は、「コギト・エルゴ・スム」と、主語の「エゴ」を落とした形で人口に膾炙しているのですが、デカルトは「エゴ・コギト・エルゴ・スム」と、主語付きで自らの著書に記している。おまけに、この言葉が掲げられた書物は、一般向けの軽い書物であって、専門家向けの書物「省察」には別の言葉が書かれている。

つまりは、デカルトのコギトは、デカルトの思想を象徴するような深遠な言葉ではなく、軽い言葉、ある種のギャグだということなのですね。それを世の哲学者は、主語を落とした形で紹介した挙句、何やら深遠な思想をこの言葉の上に展開しようとする。これは、相当に滑稽な状況です。

そもそも、コギトに主語がついていることぐらい、デカルトの書いたラテン語の原文(ウェブで簡単にみることができます:叙説*原理省察)をちょっと見ればわかりますし、ラテン語で一人称に主語を付ける意味(=主語を強調するため)はラテン語の専門家に聞けばすぐにわかることです。

*:厳密には、叙説はフランス語で書かれた原著を、デカルト監修のもとにクルセルがラテン語に翻訳したものです。

述語が真であるための要請の一つが意味のある命題であること(つまりは主語となるものは存在する必要があること)等は、論理学の専門家に聞くまでもなく、この程度の論理の基礎は、哲学者なら当然知っていなくちゃいけません。

だいたい、元カレと喧嘩したと言われたら元カレがいることぐらい、普通の人にだって瞬時にわかるでしょう。デカルトがラテン語の一人称に主語を付けた理由にしても、これを聞けば簡単に思いあたるのではありませんか?

そうであれば、私がブログに書くよりも、はるかな昔にこの程度のことは常識になっていなくちゃいけない。そうなっていない理由は、何らかの心理的ブレーキが働いて、大昔の間違いがずっと続いてしまっているとしか考えられません。

ありそうな一つの理由として、大先生の説は弟子たちには否定しにくい、という事情があるのかもしれません。いつかの誰かの間違いから現在に到るまで、師弟のつながりが脈々と続いておれば、この手のことも起こりえるだろう、と私は邪推しております。

かりにそういった背景があったとしても、哲学者も、さっさと転向しなくちゃいけない。そうしないと、大いに恥をかくうえ、鼎の軽重を問われることにもなりかねない、と他人事ながら心配してしまいます。

わかりやすく言えば、裸の王様状態が継続しているということ。まあ、別に良いっちゃ良いのですが、、、

ローレンツ変換と天動説

ローレンツ変換に関しても、ミンコフスキーの方法に比べれば明らかに劣る。その説明は長くなるので省略しますが、この二つの考え方からローレンツ変換を選ぶことに相当な無理があることは、物理学者であれば気付かなくてはいけません。

それに気が付かないとすれば、やはりここにも、何らかの心理的ブレーキが働いているのでしょう。

たしかに東西冷戦の時代に、オランダ人のローレンツではなくソ連邦に属するミンコフスキーを押すことは、西側の科学者には心理的にむずかしいし、そのようなことを主張すると研究費の獲得に支障をきたす心配があったかもしれません。

西側の学者が、敵側、リトアニア生まれの人間などよりも、オランダ人の唱えた学説を高く評価したい心理も理解できないものではありません。

しかしながら、物理学が相対論まででよいというならともかく、その先の発展を願うのであれば、よりシンプルな原理・法則で世界を理解しておく必要があるはずです。

天動説にしたところで、物理現象を説明する上では、地動説との間にさして大きな違いがあるわけでもなかったのですが、天動説にこだわっていたら、ケプラーの法則も出てこなかったでしょうし、万有引力という着想に到ることもなかったはずです。

物理学者もそろそろ転向しなくてはいけない、そんな時代になったのではないでしょうか。

今でしょ

転向には、心理的な負担もあり、なかなかそうしようという気にならないことも無理はありません。でもいつまでも、間違った思想にこだわっていたら進歩がない。どこかの段階で、思い切って転向するしかありません。

これに最善な時は、今この瞬間なのではないか、私にはそんな気が致します。

いろいろな考えがあること自体はそれほど悪いことではない。でも、おかしい考え方を持ち続ける人たちは、傍からみればおかしな存在でしかありません。

それは、昔であればオウム真理教の選挙運動、最近であれば平昌オリンピックで朝鮮チームを応援する美女軍団のようなもので、やっている人たちは真面目も真面目、一生懸命やってはいるのでしょうが、これを律しているローカルな事情の影響を受けない外側の人から見れば、奇異で滑稽な存在でしかないのですね。

時には冷静に、少し離れたところから、これまで、あたりまえだと思ってやってきた自らの行為を見直してみる。そんなことをしてみるのも、有意義なことだと思いますよ。